誤った理解に基づく著作権法の濫用が興ざめな結果を生む例がまた一つ

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皆が話題にしていた面白いビデオがオンラインから削除されてしまった―ほとんど削除されてしまったと言うべきか。(親愛なる「Daily Motion」は削除要求を無視する傾向があって、ここではまだ見られるので上に貼っておいた)。こわもて戦術を弄する写真家とその弁護士の犠牲になったのだ。またもや誤った理解に基づく著作権の濫用がアートに悪影響を及ぼした。

このビデオはBilly Joelの「We Didn’t Start the Fire」の曲に乗せて、シリコンバレーの有名人を誰かれなく、新たなテクノロジー・バブルに浮かれた人物としてこっけいに描写したものだ。私も例外でなく、というか、YouTube版では私の画像がサムネールに利用されるという栄に浴した。

ところがLane Hartwellという写真家が、彼女が撮影した写真の1枚がビデオの中で使用されているのに、使用料が支払われていないとして、弁護士を通じて苦情を言ってきた。ビデオを制作したRichter Scaleは、Hartwellにはビデオの公開を差し止める権利はないとして争う代わりに、単にビデオを取り下げてしまった。

Hartwellの周辺には彼女を支持する若干の群集が集まっている。しかし彼らは口調だけは勇ましいものの、著作権法について何も分かっていない。

私は今日(米国時間12/15)の午後、著作権法に詳しい弁護士に会ってこの状況を説明してみた。彼は私の予想を裏書してくれた。彼によると「著作権という概念は承認ではなく、禁止するための道具だ」という。つまり著作権法は、著作物に対して第三者が「何をしてはならないか」を定めているのであって、第三者が著作物を利用するにあたって、著作権者に対して事前に承認を求めなければならない義務を課するものではない。

Richter Scaleの制作したビデオに関して、問題の写真の使用はほぼ間違いなく「正当な引用」に当たるはずだ。裁判所はこのような問題ではさまざまな要素を検討する。たとえば、裁判所は、著作物の利用の態様が他者に著作物を制作する意欲を失わせるような影響を及ぼすどうかを考慮する。また、その著作物が科学の進歩に寄与するか、有意義な芸術であるかも考慮の対象となる。私が話し合った弁護士は「Richter Scaleのビデオの場合、問題の写真の使用はパロディーの要素として正当な引用と認められるはずだ」と断言している。

実際、ここで本当に問題になっているのはHartwellの感情が傷つけられた、という点だ。彼女は著作者として表示されることを求めたが、制作者に無視された。しかし著作者としての表示や感情といったものは、本来著作権法で扱うべき対象ではない。著作権法は、著作物が他者によってどんな場合に利用できないか(あるいは逆に利用できるか)を定めた一連のルールである。この問題で裁判所はRichter Scaleの立場を支持する公算が強かった。しかし彼らはこの問題を争うリスクを避け、ビデオを取り下げるという決定を下した。私はRichter ScaleがHartwellの写真を削除した上で再度ウェブ上に公開してほしいと願っている。このまま埋もれさせてしまうにはあまりにもったいない作品だ。

芸術に対する所有権に関する社会的な認識は変化しつつある。いたずらに作品の著作権を主張して、誰にも利用できないサイロの中に閉じ込めてしまえば、単に無視されてしまうだけだ。コミュニティーと協力して作品を積極的にマッシュアップさせ、あるいはいろいろな形での再利用を歓迎するなら、「アテンション」という重要な報酬が得られるのだ。この根底には「コミュニティーのメンバーでありたかったら、作品の利用を許すことによってコミュニティーに貢献しなければならない」という暗黙の理解がある。

われわれの関連記事、「頭の悪い訴訟好きに生きていく術なし」を参照。

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(翻訳:Namekawa, U)