[5-6月のスルー記事より]Facebookとホロコーストの否定; ユーザコンテンツメディアの免責性について

次の記事

Colaboloが、チームのタスク管理に新風

この5月から6月にかけてMichael Arringtonは、Facebookに対して「ホロコースト否定投稿を閉め出せ」と繰り返し迫っている。以下のように、5月10日から6月15日にかけて、かなり長めの記事が6本もある(うち2本は、幸運にも(?)スルーを免れて日本語訳がある)。このしつこさ、くどさは、最近のTechCrunchの記事の中で特別に目立つ。

日本の読者の中には、「ホロコースト否定」という言葉を見て、すぐにはピンとこなかった人が多いだろう。それに、日本やアジアばかりでなく、アメリカ、ヨーロッパの子どもたち、それにそこらのおっさんおばはんたちですら、「Holocaust denial」(以下本稿ではHDと略記しよう)という言葉をほとんど知らなかった人が多いだろう(と私は、勘で想像する)。

要するに、ホロコースト≒ユダヤ人大虐殺という“犯罪”はなかった、それはユダヤ人が戦後にでっちあげた当時のドイツ政権に対する濡れ衣だ、という主張を「ホロコースト否定(HD)」という。この説を唱える人びとは、「イエスキリストは処刑を逃れて津軽に亡命した説」や「古代エジプト人の漂流者が長野県山中にピラミッドを造った説」を唱える日本人よりはずっと多い。そして問題は、歴史に対して異説を唱えていることではなく、彼らが熱烈なユダヤ人差別主義であり、ユダヤ人のこの世からの完全削除を、究極の善として主張していることだ。

なお、上で=ではなく≒を使っているのは、ホロコーストの犠牲者の中には、同性愛者などナチスがユダヤ人と同等の「社会の汚物」と見なした人びとも含まれるからだ。差別というものは、学校での集団いじめ(いじめはほとんど集団いじめだと思うが)も含め、第三者から見て理解可能な理由などない。ただひたすら、差別したいから差別しているだけだ。差別のために暴力を揮うことには、快感やローカルコミュニティの結束感(という幻想)もあるのかもしれない。

また、ヨーロッパの歴史に根深いユダヤ人差別は、中世以降の貨幣経済の浸透とともに、それに対する“原住民”側の被害者意識にその根っこがある。「われわれを苦しめる金(かね)というものをもたらしたのが、かつてイエスを殺した劣悪な人種、ユダヤ人だ!」という短絡的発想。

Michaelにとっては、Facebookのような、今や全世界的な巨大メディアが、「殺人的暴力性を伴う悪」を閉め出していないで、むしろ投稿を許容していることが、許せない。

これに対してFacebookは、合衆国憲法が保障している言論の自由を盾にとって、「われわれメディア側の人間の主観や主義信条(あるいは好み)によって特定の主張を閉め出すことは許されない」と反論する。Facebookの広報担当(女性でユダヤ人)は、「臭いものにふたをしたって、臭いものがなくなるわけではないから、閉め出しは偽善であり自己満足にすぎない」と、ものすごく切れ味の良い論理でMichaelに反論する。ここらに、Michael==TechCrunch==所詮マイナー、Facebook==大メジャー、という落差を感じるね。

で、ひるがえってこの私は、そこらのおっさんおばはんにインターネットについて説明するときはいつも、「インターネットは現実社会の写しである。現実社会にある良いものも悪いものも、そっくりそのまますべて、インターネットの上にもある。だから、用心しましょうね」と言う。

また、MichaelがFacebookに閉め出しを迫るHDに関しては、もっと重要なことがある。日本のおっさんおばはんや欧米の子どもたちのように、「ユダヤ人差別&虐殺なんて、20世紀の前半(時期特定)にドイツで(場所特定)ヒトラーの政権が(当事者特定)がやった、昔々のこと、とっくに終わったこと」(一過性認識)という無知を是正し、まさに今も含め、彼らはあらゆる時空において熾烈に健在であるという正しい事実認識を持っていただくためにも、Facebookは今後も、彼らのアホ投稿を没にせずにじゃんじゃん載せるべきである。それによって、国の政治、司法、そして既存のマスコミ等における、メジャーで明示的(explicit)な問題として取り上げられることを、刺激するのだ。

善は、善だけでは非力である。つねに存在する悪の、生々しい身近な「存在」を、緊張感をもって見て感じているからこそ、善は強くなれる。Michaelの閉め出し主義は、ひ弱で無知で無能な善しか作らないだろう。

でも、ぶっちゃけた話、Michaelが本当にFacebookにHDを閉め出させたかったら、もっと内密で隠密で政治的な方法を採るね。だからこれは、TechCrunchの視聴率稼ぎのためのネタ、という雰囲気が濃厚だ(事実、この6つの記事はコメント数がものすごく多い)。Michaelの記事には常時、ウケねらいのものがたいへん多く、しかもその成功率は高い。われわれも、学ばなくっちゃ。

一方Facebookサイドは、HDをこれまで許してきて、世界的大メディアになった今急に閉め出したら、CEOの命が危ない、というリアルな状況があるはず。しかも、「メディア免責の原則」があるから、Facebookは、自己サイト上におけるHDの存在に関して責任を感じる必要はない。ビデオ共有サイトや音楽共有サイトでも、大手レコード会社などからの訴訟に対して、この原則により無罪になった判例がここ数年目立つ。悪いのは著作権物をアップロードした投稿者であって、それをたまたまページに載せた側は完全免責、という法的論理だ(“載せた”というより、勝手に“載った”のほうが実態だな)。

なぜそういう判決になるかというと、そもそも、24時間365日のユーザ入力のすべてを完全にチェックすることは、サイト側の能力として、能力的に不可能だからだ。(仮に1分間に27時間ぶんのビデオが投稿されるYouTubeが完全チェックをやったら、その人件費のものすごい重さで明日にもすぐに倒産するだろう)。チェックして載せたのなら意図的だから有罪かというと、そうではなくて、(これがかんじんな点だが)サイトは単にサイトというサービスを提供しているのであって、個々のユーザ起源コンテンツを法的責任主体として、サイトの主体的意思として、提供しているのではない。ここに、メディア免責原則の本源がある。意思的提供者==被告適格者は、あくまでも投稿者本人だ。

ほんとはMichaelも内心、それを知ってるはずだが。たかがFacebookが閉め出したぐらいでは、ネット上の虫退治策としてはほとんど無効、彼らののさばりは、前と変わらず–前よりひどく–健在であろうことも。

今、および今後ますます、インターネットのサイトとしては、共有サイトやブログのコメントをはじめ「ユーザ提供コンテンツ」を売りにするサイトが人気を高め、広告料金等を稼いでいくだろう。そしてそのようなサイトの歴史的新しさは、従来のメディアと違って、コンテンツの内容に関してメディア側が慣例的に免責であることだ。ご存じのように、従来型のメディアがコンテンツに関して免責を欲するときには、そのことを(たとえば雑誌の目次ページの下などで)明示的に明記しなければならない。

(文責: iwatani(a.k.a. hiwa))