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スタートアップに贈る言葉:世界を変えるはずだったことを忘れたのか?

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[jp] TechCrunch50大盛況で閉幕 アメリカのギーク産業に熱気戻る

Far_from_Dull--Dull私は、TechCrunch50に参加した殆どのエキスパートたちを、舞台裏でインタビューした。みんなには、ここでデビューするスタートアップに対する共通の不満があった。情熱が足りない、失敗を恐れすぎる、世界を変えようとする気持ちが足りない。堅実な会業を作ろうとする人が多すぎる、今ある物を少しだけ改善しようとする会社が多すぎる、第2のMint.comになりたがる人が多すぎる、なぜGoogleじゃない。Mintには何の悪感情もないが、シリコンバレーは $170M(1億7000万ドル)のエグジットから成り立ってはいない。

Reid HoffmanやSean Parkerといったウェブビジョナリーたちは、今回のステージでポジティブなフィードバックを返すのに苦心していた。「およそどんなスタートアップを見ても興奮する」と自称するRobert Scobleでさえ、退屈のあまり、Paul CarrとTwitter経由でHangmanゲームをしていた。Marc Andreessenが褒めていたUdorseは、これが成功したら世界のためにならない、と彼に言わせた会社だが、少なくとも新しいアイディアではあった。Tim O’Reillyは、自分が審査した会社の一つであるCocodotについて、成功しようが失敗しようがどうでもいい、世界にとって何の意味もないから、と言った。そして、Tony Hsiehはこう言い切った、「世界を変えようとしているものは見当たらなかった」。

重大な例外が CitySourcedKevin Roseを興奮させた会社で、理由はまさに、これまでに存在していなものを作って、人々の生活に大きな変化をもたらそうとしているからだった。2日間のイベントの中で、エキスパートが一番興奮したのを見たのが、この時だった。【訳者注:CitySourcedの発表記事(日本語訳)はこちら

こんなことを言って、このカンファレンスや選考基準にケチをつけるつもりはない。しかし、あまりにも舞台裏でよく聞いたので、無視することはできない。正直なところ、こうなることが予想されたスタートアップサイクルに入って来ているのかもしれない。シリコンバレーに倦怠感が漂い、殆どの新会社が安全に立ち振舞うことを考えている。全く同じことを2001~2002年にも見た。当時も今も、プレス関係者はこの手のことを「感受性」が高いとか「賢い」などと持ち上げる。嘲るようなリード文は「シリコンバレーは利益を思い出せ」など、それ見たことか的論調だ。

こういう連中は、シリコンバレーのことも、すばらしいスタートアップをすばらしくするのが何であるかもわかっていない。これは、FacebookとTwitterが巨額の資金を手に入れて、膨大なユーザーを獲得したのを見て、初めて記事にするのと同じ人たちだ。「感受性」の美徳を賛美するような人たちが、次の偉大な企業の中心人物になることは決してない。プレスであれVCであれ、次の波に乗るには遅い。今の波でもそうだったように。しかし、われわれのカンファレンスのエキスパートたちは、それを理解していたからこそ、殆どがうならされることなく帰っていたのだ。

これが重要である理由はこうだ。スタートアップは当然のことながら、そこに明らかな市場機会があっても、そこに立ち向かうための経験も市場でのポジションも資金も資源もない。彼らのやろうとしていることが、事業として明らかに理にかなっていれば、もっと大きくて、有利な位置にいる企業がやっているはずだ。スタートアップの持つ唯一の武器は、昔ながらのビジネス形態や既成概念に捉われず、いわば常軌を逸して物事に取り組めることだ。

今どこかに、未来の大企業を作ろうとしている起業家がいる。ただし、きっとそれは不安定なサイドプロジェクトの類で、誰も、その起業家自身さえも、それが次に来る大事件であることに気付いていない。それこそが、来年われわれが壇上に引っ張り上げなくてはならない人だ。

10年後にTechCrunch50を振り返って、ここの優勝者が次々と$100M(1億ドル)のイグジットに成功していく姿を見たくはない。最もエキサイティングなスタートアップを発掘するためのカンファレンスとしては、それでは失敗なのだ。私が見たいのは、大規模かつ大胆不敵な失敗と、大規模かつ華々しい成功だ。私が心配しているのは、われわれがカンファレンスとして安全にやりすぎると、AndreessenやHsieh、Tim O’Reilly、Reid Hoffmanらの関心を失うことになり、ついには、イベントの最後には自分たちの生活を変えれくれる何かを見られることを期待して、座り心地の悪い椅子に張りついていてくれた聴衆たちからさえも見放されてしまうことだ。

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(翻訳:Nob Takahashi)