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2000〜2009: この10年のゲーム専用機用ゲームに何が起きたか?

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Webがますますソーシャルな環境になるにつれて、プライバシーの保護が難題になりつつある。人びとはFacebookやTwitterの上で過剰に共有し、FoursquareやGowallaの上では10歩歩くたびに自分の位置をブロードキャストし、自分の最もプライベートな瞬間をとらえた写真やビデオを公開サイトに投稿している。プライバシーは死んだ、今やみんなが公開性の中で生きている、そのことを前提にものごとを考えよう…こんな主張もある。

しかし‘ものごと’はそれほど単純ではない。これまで人間はプライベートな生活を送りつつ、そのごく一部だけを公開してきた。でも今では、それが逆になりつつある。今の私たちは公開状態で生きている(we live in public)。そんなタイトルの映画もある(表情の変化によるコミュニケーション(micro-signals)はネットに載らないし、また、公開状態とは言っても自分の生活を24時間365日Webカメラで公開するわけではないが)。そして生活のごく一部だけを、プライベートにしているのだ。

Stowe Boydや、彼に先立つそのほかの人たちは、この現象を「プライバシー」の反意語として「パブリシー(publicy)」と呼んだ。Stoweはこう書いている:

パブリシーとは、要するに次のことだ: ものごとを隠さない、アクセスを招待者だけに限定しない、むしろパブリシーを前提とする一連のツールは、ものごとをオープンにし、オープンなアクセスを許容する

無理やり作ったような新語はどうでもいいが、その背後にある考え方は合ってる。この変化は社会の構造も変えてしまうだろうが、しかしそれは、今始まったばかりの現象だ。2009年はプライバシー攪乱の年だったと感じている人は、2010年にはもっとひどくなると覚悟したほうがいい。Facebookのプライバシーに関する新しい方針は、情報の一般公開を奨励している。それが今年は、元々オープンであるTwitterのなお一層の普及とともに、プライバシーの崩壊を促進するだろう。しかもBlippyのような新興サイトにいたっては、個人の買い物の内容をリアルタイムで一般公開してしまうのだ。〔Blippyに関する最近の続報記事。〕

公開状態で生きることには、慣れが必要だ。数時間前(米国時間12/30)にAndrew KeenTwitter上でもちろん公開で話したのだが、私たちは、プライベートなものを公開(public)するのではなくて、むしろ、公開状態(public)の中から選んだものを各個人のプライベートにしていくだろう。人生と生活のデフォルトがpublicなら、これまでとは逆に、何と何をprivateにしようかなぁと意識的に選ばなければならない。

プライバシーが完全に消滅するわけではない。しかしプライバシーは今後ますます、特別に意識的に決める部分になる。さきほどのStowe Boydはこう指摘する:

Web上のヌーディストのような人たちもいる。彼らは生活の細部をWeb上に公開し、男女関係や、友だちや同僚に対する本心、家族や権威とのあいだのできごとまで公表している。しかし…これほどまでにオープンなWeb市民にも、プライベートにする部分や秘密の部分はある。

プライバシーと秘密は違う。秘密は共有できるから、秘密の共有によって人びとを排他的に結びつけることもある、とBoydは書いている。今後は、公開からプライベートへの移行を簡単にできる便宜を、Web企業は提供しなければならないだろう。

最初の問いに答えるなら、プライバシーは今後も生き残る、しかし相当に変容して、すぐにそれとは分からないようなものになるだろう。プライバシーは死んだと大騒ぎする人は多いが、それは間違いだ。われわれ一般大衆は、ひたすら、公開性のますます大きい生活を、営んでいくのみである。

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(翻訳:iwatani(a.k.a. hiwa))