教育
edutech

教えるのは教師かアルゴリズムか?–教育の高度コンピュータ化はますます人間的な人間教師を必要とする

次の記事

テクノロジーは手遅れになる前に教育の危機を救えるか?

robot teacher

編集者注記: これはシリコンバレーの伝説的な投資家Vinod KhoslaKhosla Venturesのファウンダ)からの、三部から成る寄稿の第三部だ。第一部で彼は、今回の論旨の基盤として、人工知能が単なる論理マシンではなく、人間の能力とコンピュータの能力との組み合わせであることを説明した。第二部では、ソフトウェアとモバイル技術が医師の能力を増強し、さらに、医師に換わることもありえる、と説いた。第三部では、テクノロジが教育を全面的に改革する、と説く。

この前の私の記事では、医者が今やっている仕事の多くをソフトウェアがやるようになる、と主張した。では、教育はどうだろう? 実は私ととてもよく似た話を、TEDの笑わせ上手な人気講演者Sir Ken Robinsonが“a crisis of human resources”(人的資源の危機)というタイトルでやっている(彼がRSAで行った講演のビデオは、アニメ入りでとても分かりやすい)。TED 2010のカンファレンスで彼は、テクノロジによって人的資源が要らなくなるどころか、“人間の才能はまだ十分に活用されていない”と述べた。まさしくこれまでのわれわれは、医師の才能と教育訓練の成果を…日々のお粗末で繁忙な医療実践の中で…見殺しにしているのと同じ意味で、教師たちのせっかくの才能と教育訓練の成果をどぶに捨てている、と私は思う。

しかし、才能と教育訓練の未消化下痢状態がもっともっと甚だしいのは、児童生徒自身だ。とくに本稿では、高校教育に焦点を当てよう。われわれの社会や親たちや学校が、小学校、中学校、高校と続く教育過程に子どもたちを無理やり押し込もうとするのはもっぱら、大学進学のためだ。このワンパターンな初等中等教育過程は、未だに変わっていないし、問題視されたこともない。そう、このシステムは完全に線型で、その最大の悲劇は、教え方だけでなく試験も含めて、それが巨岩のように不動の標準パターンになっていることだ。さらにまずいのは、それが(私の用語では)“時間固定-学習可変”(fixed time, variable learning)であって“学習固定-時間可変”(fixed learning, variable time)になっていないことだ。ハイスクールは、万人等しく4年行かなければならないし4年通えば追ん出される。つまり、生徒個体の能力や状態とその差異は、無視されているのだ。

教育の新しい傾向とは

技術の進歩によって、教育の世界にも新しい重要な変化が生まれている。とくに重要なものは、多極化とゲーム化だ。この二つの最新トレンドを理解すれば、教師は要らないとか、教師を教師職から解放してメンター(mentor, 相談役, アドバイザー)やコーチ(coach, 手引き者, 指導者)になってもらえる、といった説ないし状況が現実的に想像できるようになる。つまりコンピュータのソフトウェアは、教師を解放してより人間的な関係を持てるようにし、教師は教壇から子どもたちに講義するのではなく、彼らに対する指導相談役(guidance counselor)や、彼らの友だちとして振る舞えるようになる。中でもとくに、この、’友だち’という部分がものすごく重要である。学校が、単に勉強をするだけでなく、教師と子どもたちとの関係、および子どもたち同士の多様な対話的関係を通して、子どもの社会性を発達させる場になる。学校という場所の、教室という部屋に、子どもがほかの子たちと一緒にいることの本当の意味が初めて前向きに発動し、教師も、授業を教えるだけではない人間的な存在となる。そして、教師の可処分時間が増えることによって、そういう、子どもの社会性の発達という部分でもテクノロジをうまく利用できるようになる。

テクノロジを教育に利用しようとする努力の多くが、これまで失敗してきたが、これからは違うだろう。これまでの失敗は、テクノロジを利用しようという方針自体が間違っていたのではなく、実際のやり方が不適切だったのだ。つまりそれは、FriendsterやMyspaceなど一部のソーシャルネットワークが失敗したことが、ソーシャルネットワークそのものに「だめ」の烙印を押すものではない、といった状況と同じだ。やり方がうまかったソーシャルネットワーク(Facebookなど)は、大成功するのだ。

二つの重要な変化(多極化とゲーム化)のうち、まず多極化(decentralization, 権力等の一点集中の排除)を取り上げよう。これは、オンライン化で多様なコンテンツが複数の場所で入手できるだけでなく、そこに対話性とモバイル性(移動性,場所非束縛)が加わることが重要だ。今では、単純に本を線型にオンライン化したものではない、コンテンツの多様なオンライン提供形式の実験が、各所で本格的に行われている。本稿も、その動きに勇気づけられて書いている。また、われわれ自身が、さまざまなスタイルや技術やリソースによる実験(たとえばソーシャル学習)を簡単迅速にできるプラットホームも、すでにいくつかある。それらから、従来のように一つではない、教育の多様な新しい形があることを、理解できる。

単純なものとしては、Khan Academyなどの機関が、各教科の優れた講義により、下手な教師に出会った生徒たちの不運を埋め合わせている。それは効果を上げているようで、すでに数十万の生徒たちがここのビデオを見て、不足を補っている。医師の場合と同じく教師も、優秀な先生は全体の20%、残る80%は“並の”先生だ。ときどき、すばらしい先生が話題になったりするし、読者の思い出の中にも一人や二人の“すてきな先生”がいるだろう。でも、それらの特例は、統計的にはあまり意味を持たない。また、私の妻がやっているCK12.orgは、高校教育のための代替的な基本コンテンツを無料で提供し、しかもそれらはオープンソースなので、日に日に改良されている。

教育提供主体の多極化は、生徒以外にも利益をもたらす。たとえばCK12は2012年の初頭から、教師たちに“バイオニックソフトウェア“について教えるレッスンを開始する。これらのソフトは生徒の評価を支援するもので、Khanでも使われている。さらにCK12は2012年から、生徒たちが5000あまりの重要な概念を自学自習できるコースを設ける。学ぶ概念の数は、生徒が選んだ粒度で異なるが、それらは単純に語彙のテキストではなくて、セマンティクスの集合だ。このほか、学習の構成を国や州のカリキュラム要件に合わせて教師や生徒自身が調整する機能もある(テキストやビデオによる説明、実験、研究、Flexmathで遊ぶ、シミュレーション、生徒や教師が自己テストするためのQ&Aバンク、同じく生徒と教師のためのFacebook的なソーシャルヘルプ、などなどから選んで構成する)。このように柔軟で多様な構成のできるシステムにより、個体差や要件差に合わせられるほぼ普遍的な学習が可能になる。このような、多面対応のできる学習提供サイトは、ほかにも多数ある。

重要なのは、個々の特定のシステムよりもむしろ、やり方をユーザがさまざまに工夫できて、低費用で多様な実験ができることだ。これまでは、新しい教育を実験しようと思えば、何千万ドルもかけて新しい学校を作り、教師をそれ向けに訓練するしかなかった。しかし今では、CK12.orgのようなサービスがインターネット上に次々と登場しているので、実験費用も下がり、十分な量の実験を誰もが気軽にできるようになった。これによって、教育におけるイノベーションが、これまでに比べて格段に加速されるだろう。

タブレットやスマートフォンで(デスクトップ時代に比べて)Webへのアクセス性が増したことと、ゲーム化やソーシャル化といった傾向がさらに、その加速のアクセルを踏み込む。また、これまでのシステムでは不可能だったほど大規模なデータをオンラインで集めることができることも、生徒の行動理解の改善に寄与する。教材を読んでいくときや、宿題をするとき、問題を解くときなどに、この生徒はどこで何をクリックしたか、どこでためらったか、などの情報の取得がビッグデータの技術で可能になる。そうすると、ほとんどリアルタイムに近い速さで、誰にとって何が効果的で、何が躓きの石になっているかが分かる。

もうひとつすごいのが、ゲーム化だ。ゲームというと時間の浪費と思う親も多いと思うが、ときには才能の浪費と思う親たちもいる。学習におけるゲームの居場所をめぐって議論は絶えないが、でもひとつはっきりしているのは、それがすでに定着していることだ。だからむしろ、ゲームの良い点を、インターネットやモバイルのゲームと共に育つ今の子どもたちの教育のために積極的に利用したほうがよい。つまり、それを成長のための栄養に変えるのだ。昨年The New York Timesに載った記事によると、Joan Ganz Cooney Centerによる調査の結果では、iPhoneの教育用アプリの売上上位のものの60%は就学前の幼児用だ。そんな子たちが、一年生になったら、アプリとゲームで育ったことを急に忘れてくれるだろうか? それは、絶対にあり得ないだろう! むしろ、ゲームの利用によって教育がもっと子どもたちにとって魅力的なものになる、と考えたほうが無理がない。ゲームが学習効果を高める点では学年を問わない、幼稚園でも大学の医学部でも変わらないはずだ。これは私個人の勝手な期待ではなく、すでに十分な量の証拠もある。ゲームデザイナーのJane McGonigal自分のサイトで述べているところによると、自分の人生の第一目標は、ゲームのデザインが人類に与える影響により、ゲームデザイナーがノーベル賞にノミネートされる事態を目撃することだそうだ。ゲームというものに対するこれからの見方としては、これぐらい前向きなものこそ妥当だと私は思う。

私がとくにワクワクしながら感じている可能性は、ハイスクールの教育が抜本的に変わることだ。50人のクラスで、教師たちが、退屈しているAの生徒たちと、まったく授業について行けないDの生徒たちに同じ講義をしている現状から、個体差に適応した最適難度を持つ、ゲーム化した学習システムに変わること。しかもそれらは、Facebookが証明しているような人間のソーシャルな側面をうまく利用している。たとえば、自分のことを日頃からよく知っている友だちが、ある学科の理解を助けてくれる、と想像してみよう。その場合、私の見解では、助けをもらう生徒だけでなく、助けてあげる友だちも、その学科の理解が深まるのだ。そして、(いかにもゲーム的に)ポイントとかスターとかバッジをもらえることが励みになり、そこで過ごす時間も増える。自分の意思で長居するのだから、今の学校の教室よりは、学習に向かうモチベーションも高まる。さらにこれに、評判システム(reputation system)が加われば、教育の革命が始まる。それらの、おもしろくてやみつきになる教材コンテンツは、そのプロデューサーが上位20%の優秀教師たちだ。そして彼らトップ教師たちが作り出す教育効果と彼らのリーチが、今後の技術革新によって何倍にも大きくなるから、様子見をしていたトップ教師たちもコンテンツのプロデューシングに参加してくる。それは彼らにとって、これまで好きなテレビ番組を見ることが楽しいことであったのと変わらないほどの、楽しい創造的体験になる。

教育の将来ビジョン

10年後にバージョン9.0になっているCK12のような、教育プラットホームの姿を、今から想像できるだろうか? それらに、Zyngaのゲームの10倍の興奮をかき立て、関心をわしづかみにし、スキルを構築する力があることを。教育環境がゲームを軸に構築されることを、想像できるだろうか? その、初期的でぎごちない原型が、Quest to Learnだ。教育を生徒たちに押しつけるのではなく、むしろその逆に、教師たちは生徒たちの心を教育へ惹きつける。ゲームを次々とクリアしていくようにして、生徒たちは、プログラムのコードを書くことによる問題解決や、ソーシャルメディアの生成と統合、ゲーム的に作成するデザインなど、21世紀のスキルを身につけていく。しかも、教育機関と教育のためのプラットホームの、このような未来的なトレンドは、今すでに始まっている。

未来に関する私のビジョンの中にある、もう一つの重要な部分は、生徒(sutudent)がまさに生徒(student==studyする者)であることの再発見だ。今ある先駆的な社会実験の一つであるHole in the Wallが赤裸々な事実として示しているように、子どもたちが自分で自分をモチベートできたときの学習能力は、信じられないほどに強力だ。コンピュータを見たことも、ましてや操作したこともない子どもたちが、自分自身の興味と好奇心に駆動されて、Webの閲覧、ゲームで遊ぶ、外国語の基礎を学ぶ、ソフトウェアのマニュアルを読む、といったことを、わずか3か月でできるようになる。そういう自己学習のやり方そのものは、コンピュータと遊び始めた最初の数時間でおぼえてしまうのだ!

さらに重要なのは、彼らは自分で自分を教えるにとどまらず、コミュニティの中でほかの人たちを教えられるようになることだ。子どもたちには、その本来の自然な能力として、学び、そして教える能力がある。ソーシャル化とビッグデータの分析とゲーム化、以上三つのものを有用なツールとして未来の教育は、子どもたちに、彼らがそれぞれ自分のやり方で学べる環境を提供することにかかっている。自分に合った様式、方法、流儀で彼らは、州や大学のカリキュラム標準を満たすことすらできる。また大学も、それぞれが独自の標準を作り、これまでの学校になかったような、個性と魅力を発揮しなければならない。医者に関しては、今ほど多くの医者は要らなくなると思うが、教師に関しては、上位20%ではない並の80%の先生たちの、重要な役割は残る。それは、いわゆるメンター(mentor, 相談役, アドバイザー)やコーチのような、“人間的な”役割である。教師がそういう、きわめて人間的な職業として再定義/定義変えされれば、教師志望者はすごく増える。

向こう20年か30年で、医療から医師が不要になり、教育から教師が要らなくなる、と考えるべきなのか? 技術開発をやってる連中は、短期的な成果しか見ない近視眼が多く、また、進歩がはやく変化が激しいので長期的な視点は持ちづらい側面がある。しかし、これまで述べてきたように、コンピュータが車を自分で運転でき、Jeopardyのチャンピオンになれるほどの大量の知識を持ちうるのなら、それが病気を診断でき、ハイスクールで教えることができるようになるのは、もはや時間の問題だ。大量のデータに支えられたコンピュータによる教育や医療のアルゴリズムは、それ自身が改良され続けるだけでなく、人間医師や人間教師たちを解放して、人間にしかできないことに、これまでなかったほどめいっぱい専念させる。

テクノロジは、医療においても、また教育においても、人的資源の人的資源としての有効利用度を高める。強力なアルゴリズムと、人間性豊かな人的資源の両方から、たえず十分な質と量のデータが提供されることにより、患者はつねに自分の状態を正しく知り、自分自身に強く明晰に向き合うことができる。生徒は、アクセス性の良い魅力的な環境の中で、自分を自分で発展させられる。それが、今の私に見える未来だ。私のその視界を支えているものが、今勃興中のトレンドであるのなら、目に見えるものは獲得できるものでもある。このような未来に到達するために必要なのは、それ(未来)を発明することだ。

イラスト: koya979

〔関連記事(1)(2)。〕

[原文へ]
[jpTechCrunch最新記事サムネイル集]
[米TechCrunch最新記事サムネイル集]
(翻訳:iwatani(a.k.a. hiwa))

“教えるのは教師かアルゴリズムか?–教育の高度コンピュータ化はますます人間的な人間教師を必要とする” への2件のフィードバック

  1. 教師ってのは勉強教えるだけの存在じゃないだろ。

  2. 学習塾案内 より:

    将来的には受験などをipadのような電子機器で行なうようになるのでしょうかね。テスト終了と同時に結果が採点され、合否がすぐ分かるようになったら便利そうです。

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中