“There’s an app for that”(そう、iPhoneならね)。
Appleが、自らの提供するアプリケーションストアの巨大さをアピールするのに利用しているマーケティングスローガンだ。我々の生活のあらゆる面を「アプリケーション化」しようとしていることを示す語でもある。交通手段からクリーニングサービスまで、すべて手元のスマートフォンを操作することで実現できるような社会になりつつある。この「アプリケーション化」の流れに行き着くところはあるのだろうか。あるいはこのまま進み続け、私たちの日常生活はすべて機械を経由して実現されるものとなるのだろうか。
まず、勘違いしてほしくないのだが、タクシーやホテル、ヘアサロンやレストランの予約にコンピュータを使うようにするというのは非常に便利なことだと思っている。こうしたことは生活者、ビジネス旅行者など、すべての人が行わなければならないことだ。そうしたことが、快適かつ便利に行えるようにするというのは自然な流れだろう。「アプリケーション化」が行われる前にも、そうした行為については「デジタル化」が行われていた。すなわち「電話をかける」ことで、たいていのことは「電話」を通じて行うことができた(タクシーが通らないところにいても、電話で呼び出すことができた)。
しかし現在、そうしたシンプルな便利さを求めた時代とは全く異なる状況を迎えつつあると言えるのではなかろうか。「便利」だとか「快適だ」などという範囲を超えたところで「アプリケーション化」が進んでいるような気がするのだ。
こんなことを考えるようになったのは、最近知った2つのアプリケーションがきっかけだ。ひとつはバーでのオーダー作業を簡単にすると謳っているCoasterというアプリケーションだ。このアプリケーションが解決するとしている問題は確かに存在するのだと思う。バーでオーダーするというのは面倒で非効率的な作業になりがちだ。ただ、このアプリケーションがバーでの効率をアップするとしていることはどうなのだろう。皆、こういうアプリケーションを使いたいと思うのだろうか。
もうひとつは駐車場から車を出す際に使うアプリケーションだ。駐車係に頼んで車を出してもらうとき、頼んだ後はじっと待っている必要がある。ボタンひとつで、先に車の準備をしておいてもらえるようにすれば便利ではなかろうか。また、そうすれば駐車場管理会社は、利用者がどのレストラン、ホテル、ショップに出かけたかの情報を集めて活用することができる。こういうものこそWin-Winの関係であると、開発者は主張する。
ふむ。
これは私が年寄り組に入りつつあることを意味するだろうか。自分のことを、非常なアプリケーション好きだと認識している(スマートフォンには400以上のアプリケーションをインストールしている)。しかしどうしても起動させる気にならないタイプのアプリケーションというのがあるのだ。使ってみると、なるほど便利さに心惹かれるようになる。しかし心のどこかで「それを使うんじゃない」と抵抗したくなるアプリケーションというものがあるのだ。
そして、こんな風に感じるのは私だけではないようなのだ。Coasterアプリケーションについても、快適さの裏で、こう呼ぶのが適切かどうかはわからないが、「人間性」とでも言うようなものが失われてしまうのではないかという議論があった。たとえばこのような意見だ。
どうやらバーテンダーをオーダーに対応するだけのロボットのように扱っているのが気に入らない。訪れたバーでこのようなシステムを採用していればがっかりすると思う。ぼくの気に入らない人たちにはこういうタイプの店に行ってもらいたいけどね
まさにその通りだと思う。
こまごました身の回りのことを、すべてソフトウェアで解決しようとするやり方は、確かに「合理性」追求の側面から見れば正しいかもしれない。Coasterの例で言えば、待ち時間の節約になるし、オーダー処理の効率化、公平化に繋がることでもある。売上の増加にも繋がり、「良いこと」なのかもしれない。ただ、こうしたやり方が、人同士のコミュニケーションの機会を失わせることについてもよく考えたい。人間の存在が、アプリケーションに何かデータを送り込むための存在に成り下がってしまう面があると思うのだ。そういうふうに感じるので、Coasterなどのアプリケーションを使いたくなくなるわけだ。何かを便利にすることが悪いと言っているわけではない。ただ、可能だからといって、身の回りのすべての物事をデジタル化してしまうのが良いとは思えないのだ。たとえそれがビジネスとして成り立つ場合でも、いつもそれが正しいことだとは思えないのだ。
混雑するバーで、きちんと対応してもらおうとするのがどれだけ難しいかはよくわかる。紙幣やカードを振り回して店員の気を引こうとしても、結局皆がそうしているわけだ。順番などお構いなしでとにかく店員の注意を引きつけた者が勝ちだ。勝者となれば「おっと失礼」といった風な笑顔を見せ、そして中身の伴わない同情のやり取りが繰り返される。そういえば私自身も、順番や公平さなど意識もせずに、バーテンダーのアルバイトをしたことがある(ずいぶん若い頃の話だ)。ホテルのプールサイドにあるバーだった。
確かに現在の注文システムというのは欠陥だらけだし不便なものだ。いらいらするし改善しなくてはならない点がいくつもあるようにも思える。ただ、結局のところ、人生というのはそうしたものから成り立っているものなのではなかろうか。あるいは人生そのものがそういうものなのではなかろうか。なんとか改善しようと試みたり、効率的にしようと努力したり、何らかの対応策がビジネスにならないものかと考えてみたりする。しかし結局穴が見つかったり、混乱を極めてしまったり、例外的な状況がみつかったりして、元の木阿弥となってしまうことが多い。そう、つまるところそれが人生というものだという側面もあるのだと思う。
Coasterの目的は、バーでオーダーすることだ。何か、どうしても迅速に対処しなければならない人生の一大事を解決しようとするものではない。バーでオーダーするのに、なぜ無駄を排除しようと考える必要があるのだろう。
本稿は別にCoasterの悪口を言おうと思って書いているわけではない。人生にあるちょっと無駄に思える楽しさのようなものをデジタル化して消してしまうアプリケーションとして、いちばん最近出会ったのがCoasterだったのだ。そう、「無駄に思える楽しさ」というのは結構大事かもしれない。混雑しているバーの中でうまくオーダーを通せたとき、ちょっと自分を褒めたくなった経験は多くの人に共通のものなのではなかろうか。
そういう意味で、チェックイン数に基いて、その夜の「いけてる」バーを紹介するアプリケーションも好きではない。また、野球場で食べ物をオーダーするMLBのアプリケーションも気に入らない(こんなものを認めていては、野球場での「ポップコーン!」や「ピーナッツ!」の売り声が失われてしまう)。また、「ソーシャル」でありたいとばかり考えているようなicebreakerやデート用アプリケーションなども気に入らない(否、Grindrのことではない。これはなかなか大したものだと思う)。「効率的」ではあるのだろうが、「人間的」ではないように思える。
アプリケーションが求めるべきものは、「効率性」のみではないと思うのだ。たとえばSquareを見てみればよいと思う。このアプリケーションのおかげで、高価でゴツイ機械が無用になった。しかし、Squareを利用する際に署名プロセスが無用なことをご存知だっただろうか。無用なのだが、初期状態ではこのプロセスが省けないようになっている。Squareは、署名を省けば本人確認が疎かになるのだと言っている。しかしそれだけではなかろう。指でサインをするというのは面倒臭く、とても便利だとは言えない作業だ。ただ、このプロセスがあるおかげで、従来の手順とあまり変わらないのだという安心感を与えることができるのだ。また、指による署名作業を省く場合も、Squareは利用者による名前の発声を必要としている。つまりチェックアウト時にマシンに名前を伝え、そしてオペレーターに「終わったよ」などと声をかけるようになるわけだ。オペレーター側の方も、利用者と相対して挨拶を述べるようになる。テクノロジーを利用して人と人が繋がるように仕向けているわけで、決して機械に人を代替させようとはしていない。
結論:人間はアプリケーションにデータを入力するための機械ではない。また効率性というのは、他の何よりも重要視すべきものというわけでもない。効率性とは別のところに「楽しみ」という尺度があると思うのだ。飲み物をオーダーするのに画面をタップするというのは、確かに未来的なやり方なのだとは思う。しかしお酒やツマミをオーダーしようとして、誰かに先を越されたり、バーテンダーに気づいてもらえなかったりすることを経験しなければ、本当に「経験を積んだ」とは言えないと思うのだ。
無駄な追記:ところで混雑するバーに実際に出かけて人と押し合いへし合いするというのは、「デート用アプリケーション」を無用にする一番の方法だと思う。そうした場所で何がおこるのかは、きっと読者の方々もよくご存知のことだろう。
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(翻訳:Maeda, H)
