書評:ベン・ホロウィッツの『HARD THINGS 』―「戦時の組織のリーダー」の必読書

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75万人が利用するSlackの評価額は28億ドルとなり、1億6000万ドルを調達

TechCrunchの読者にはベン・ホロウィッツはシリコンバレー最強のベンチャーキャピタルリストの一人としてよく知られているだろう。ホロウィッツは起業家向けコラムのライターとしても人気があり、ブログの延べ読者は1000万人近い。TechCrunchにもたびたびコラムを寄稿している。例えば、翻訳したものだと「銀の弾よりも鉛の弾–戦わずにすむ奇手妙手を探すなかれ」とか「リーダーシップに関する覚書:お手本は、スティーブ・ジョブズ、、、、ウィリアム・キャンベル、そしてアンディー・グローヴ」、「アンドリーセン・ホロウィツのベン・ホロウィッツ、「投資すべきは大学中退の若者のビジネスモデルがゼロのとっぴょうしもないアイディア」」などがある。未翻訳ながらも、公開時に話題になったコラムだと「The Struggle」がある。

投資関連だと、「Ben Horowitz、「Andreessen Horowitzはたった3週間で15億ドルの資金を調達した」」、「Andreessen Horowitz、Instagramへの投資25万ドルが7800万ドルになった」や、最近の事例だと「評価額25億ドルのLyftは、楽天を筆頭に5億3000万ドルをシリーズEで調達」がある。

そのホロウィッツが昨年出版したThe Hard Thingsの日本版が今日(5月17日)、日経BP社から発売となるのでご紹介したい。

邦題は『 HARD THINGS 答えがない難問と困難にきみはどう立ち向かうか 』。翻訳はTechCrunch翻訳チームの同僚、高橋信夫氏と私が担当した。企画・編集は『スティーブ・ジョブズ 驚異のプレゼン』、『フェイスブック 若き天才の野望』、『沈みゆく帝国 スティーブ・ジョブズ亡きあと、アップルは偉大な企業でいられるのか』などシリコンバレーのホットなノンフィクションをたてつづけにベストセラー化している日経BP出版局の中川ヒロミ部長。YJキャピタル取締役COOでエンジェル投資家でもある小澤隆生氏には日本版序文をいただいた(Amazonの紙版はこちらKindle版Kobo版も発売中。

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ベン・ホロウィッツといえば、共同ファウンダー、ゼネラル・パートナーを務めるアンドリーセン・ホロウィッツがベンチャーキャピタルとして驚異的な成績を挙げていることがまず頭に浮かぶ。2009年の創立直後のSkypeへの大胆な投資によってわずか1年半で1億ドル以上のリターンを得てシリコンバレーを驚かせたのを皮切りに、ポートフォリオからはFacebook(上場)、Twitter(上場)、Groupon(上場)、Zynga(上場)、Instagram〔買収)、と大型エグジットが続いた。現在のポートフォリオにはLyftやLytroのような有望スタートアップが並び、さらにAirbnb(評価額200億ドルで新ラウンド準備中)のような超大型スタートアップも含まれる。

これだけ見ればベン・ホロウィッツもマーク・アンドリーセンも順風満帆のシリコンバレーの成功者に思えるが、実はここまでの道のりは平坦ではなかった。というより阿鼻叫喚、修羅場の連続だったことが詳しく本書で語られている。実はホロウィッツが本書を書こうとした動機がそこにあった。冒頭でホロウィッツはこう書いている。

本書は分類すれば起業家向けの経営書ということになるのだろうが、内容は大いに異色だ。そもそもこの本を書こうとした理由をホロウィッツが冒頭で述べている。

マネジメントについての自己啓発書を読むたびに、私は「なるほど。しかし、本当に難しいのはそこじゃないんだ」と感じ続けてきた。本当に難しいのは、大きく夢見ることではない。その夢が悪夢に変わり、冷や汗を流しながら深夜に目覚めるときが本当につらいのだ。…会社が失敗のどん底に落ち込んだときに、社員の士気を取り戻すためのマニュアルはない。〔会社経営という〕困難なことの中でももっとも困難なことには、一般に適用できるマニュアルなんてないのだ。

これは誇張ではない。本書の前半ではホロウィッツがくぐり抜けてきた修羅場が詳しく語られる。

大学院を出た若きホロウィッツは5歳も年下の天才マーク・アンドリーセンに心酔し、当時日の出の勢いだったネットスケープに参加するが、そのとたんにマイクロソフトがIEをバンドルして叩き潰され、AOLに買収される。アンドリーセンと共にAOLを離れて世界最初のクラウドコンピューティングサービスのLoudCloudを起業して勢いが出たとたん、今度はドットコムバブルが破裂する。ベンチャー資金が枯渇して倒産が目前に迫る。そこで乾坤一擲、上場による資金調達を図る。2週間に2時間しか眠らないロードショーのおかげで上場に成功するが、またまた大口顧客が倒産して巨額の貸し倒れ。ドットコムバブルも長引き、倒産の危機が再燃する。そこでクラウド事業をEDSに売却してOpsWareというクラウドソフトのプロバイダーに転身するというピボットを図る。これで一息ついたとたん、最大顧客のEDSが契約破棄を要求。60日の猶予を取り付けて突貫作業でソフトを書き直し…最後にHPに16億ドルで売却の運びになる。ところが調印寸前に会計監査を担当していたアーンスト・アンド・ヤング会計事務所にとんでもない言いがかりをつけられ、一転して交渉は破談寸前に…。

ホロウィッツのCEOとしての8年は、「このままでいけば私は470人の社員を路頭に迷わせることになる。投資家の金を失い、顧客を大混乱に落とし入れる。冷や汗をかいた。泣いた。気分が悪くなって吐いた」の繰り返しだった。恐怖のジェットコースター生活だ。このあたりは読んでいるだけで手に汗を握る。

ホロウィッツは「会社が本当の危機に直面したときにはレモネードのスタンドも経営したことがないような評論家の経営書など何の役にも立たない」と言う。本書で論じられるのは組織のリーダーの多くが直面するきわめて具体的な「困難な問題」であり、ホロウィッツが自らの体験から割り出した対応のヒントだ。

本書で取り上げられているテーマはたとえば次のようなものだ。

人を正しく解雇する方法
幹部を解雇する準備
親友を降格させるとき
なぜ部下を教育すべきなのか
友達の会社から採用してもよいか
大企業の幹部が小さな会社で活躍できない理由
社員が幹部を誤解するとき
経営的負債とは何か
経営の品質管理が必要だ
社内政治を最小限にする方法
正しい野心と間違った野心
肩書と昇進―2つの考え方
優秀な人材が最悪の社員になる場合
個人面談は人事管理の最重要ツール
企業文化を構築する
会社を急速に拡大(スケーリング)させる秘訣
成長を予測して人材を評価する誤り
「ワン」型CEOと「ツー」型CEO
平時のCEOと戦時のCEO
CEOを評価する基準

社員のレイオフや幹部の解雇にページが割かれているのはアメリカ企業らしいが、日本でも終身雇用制は急速にくずれつつある。特にIT企業、スタートアップ企業ではいずれ避けられない事態になりそうだ。備えあれば憂いなしで、そうした事態になったときリーダーは何をしなければならないのか、心構えを学んでおくのは必要だろう。

個人的には「戦時のCEO」というテーマが興味深く感じた。ホロウィッツは会社が存立そのものを脅かされるような危機に直面していることを「戦時」と表現する。

ビジネスにおける「平時」とは、会社がコア事業でライバルに対して十分な優位を確保しており、かつその市場が拡大しているような状況を指す。平時の企業は市場のサイズと自社の優位性の拡大にもっぱら注力していればよい。これに対して「戦時」は、会社の存立に関わる危機が差し迫っている状態だ。そうした脅威にはライバルの出現、マクロの経済環境の激変、市場の変質、サプライチェーンの変化などさまざまな原因が考えられる。

戦時のCEOはたったひとつの誤った判断、あるいは判断の遅れだけで会社を潰すことになる。ホロウィッツは半導体メモリー市場で敗北し倒産の危機にあったIntelをCPUメーカーとして再生したアンディー・グローブを戦時のCEOの理想としている。グローブは部下を気絶するほど容赦なく叱責した。ホロウィッツによれば、戦時のCEOは罵り言葉を使い大声で怒鳴るのも止むを得ないという。

会社にすでに弾丸が一発しか残っていない状況では、その一発に必中を期するしかない。戦時には社員が任務を死守し、厳格に遂行できるかどうかに会社の生き残りがかかることになる。戦時のCEOは偏執的だ。平時のCEOは野卑な罵ののしり言葉を使わずに済む。戦時のCEOは意識して罵り言葉を使う場合がある。

部外者はとかく独裁的CEOを「ブラック企業のボス」よばわりするが、本書は容赦ない独裁だけが会社を救える場合があることを具体例で示している。ただし、こうした「戦時」の独裁はあくまで会社を救うことが目的であって、自分のエゴのためであってはならない。この点については「正しい野心と間違った野心」というテーマで詳しく論じられている。

本書ではベン・ホロウィッツのバークレーでの生い立ちや美しい妻、フェリシアとの出会いが詳しく語られて興味深い。父のデビッド・ホロウィッツも重要な脇役として登場する。若いベンが妻子をかかえて先行きの見込みのない会社で安い給料で苦闘しているところに父デビッドがやってきて「安いものはなんだか知っているか?」と尋ねる。ベンが知らないと答えると「花さ」という。デビッドは「それじゃ高いものはなんだか知っているか? 高いものは離婚さ」と続ける。ホロウィッツははっとして家庭を優先させなければならないことを悟り、まともな給料を払う会社に転職する。デビッドは元リベラル派で現在は保守派の有力評論家だが、ベンの生き生きとした文章は父親譲りかもしれない。またマーク・アンドリーセンも全面的に編集、推敲を手伝ったという。

『フェイスブック 若き天才の野望』が夢のようなシンデラレ・ストーリーなら、『HARD THINGS』は魔女、悪竜、邪悪な小人の群れなどにくりかえし絶対絶命の瀬戸際に追いやられながらついにグループを率いて無事に目的地に達するリーダーの冒険物語かもしれない。経営書ということを抜きにしても十分に楽しめる本だと思う。こういう優れた著作の翻訳が翻訳できたことはうれしい。TechCrunch読者の皆さんに自信をもってお勧めできる一冊だ。

滑川海彦@Facebook Google+