Natural Language Generation
the singularity

AI不信が強まる中、望まれるのは人類−機械のコラボレーション

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編集部注:本稿はRobert Daleによる。氏はArria NLGのCTO兼チーフ・ストラテジー・サイエンティストを務めている。

AIが進化するにつれ、人類の滅亡の日が近づいているのではないかという話をきくことが増えてきた。

ビル・ゲイツ、イーロン・マスクあるいはスティーブン・ホーキングたちも人工知能の進化に対しては警告を発しており、楽観的進化論者のレイ・カーツワイル(Ray Kurzweil)などはおされ気味であるのが現状だ。またスウェーデンの哲学者であるニック・ボストロム(Nick Bostrom)もAIがもたらす恐怖についての思考実験を行なっている。もちろん、そのような勢力が力を得ていることには理由はある。

たとえばキューブリックの「2001年宇宙の旅」では、人工知能のHALが宇宙船のドアを開けることを拒否していた。映画が登場して50年を迎えた現在、そのような状況もあり得るように思える時代となった。私たちは、自動化された軍事ドローンが殺害相手を自律的に判断したり、あるいは自動運転車が子供をはねるべきか、あるいは路傍の木に衝突していくべきかを主体的に判断するような世界で生きているのだ。

しかし実は、AIがすなわち人類に敵対するものだと考える必然性はない。人類とAIが補完的な存在である可能性はあるし、私はそのように考えている。

結論からいえば、機械(AI)が人類のような「スマートさ」を身につけることはないと考える。もちろんチェスをプレイする人工知能もあれば、「ジェパディ!」で活躍するものもある。あるいはまだまだ先だろうと思われていた囲碁界でもAIが躍進しつつある。しかし、人間の「スマート」さは、そうした面にのみあるのではないということが通説的に扱われて久しい。

ダニエル・ゴールドマンが「こころの知能指数」(EQ)の概念を提唱したのは20年前のことだ。EQについて簡明にかつ誰もが認める形で定義するのは難しい。そもそも「知能」と呼んでよいものなのかどうかについても議論がある。しかしEQ(ないしEI)が知能なのかどうかが問題なのではない。人間が持ち、しかし機械が持ち得ないものがあるということが大切なポイントなのだ。人類の考え方や振る舞い方は、機械とは大幅に異なったものになるのだ。

古典派の経済学者たちなら、私たち人類がもっぱら「合理的」に判断して行動すると考えたくなることだろう。しかし行動経済学は、私たちの行動には経済的合理性には沿わないところがあることを示し、また合理性自体も後付的なものであることが多いことを明らかにした。

結局、機械のインテリジェンスと人間のインテリジェンスは別物であると思うのだ。その両者に同じ「知性」という語をあててしまっては、単に混乱を招くだけであると思う。AIについては「賢くなった」というように、人間と共通するような評価をすべきではないと思うのだ。「賢い」という言葉の意味がわかりにくくなってしまうとも思う。

もちろん、機械にできることが増えつつあることを否定するものではない。駆使するロジックも飛躍的な発達をとげている。複雑な状況にも対応できるようになってきているし、また変化の多い状況にも適切に対処することができるようになってきている。しかし、われわれ人類とは、多くの情報を用いて物事を合理的に解決するというためだけに存在するのではない。異なる強みを持つ両者は、競合的にではなく共生的に存在していくべきだ。

たとえば個人的にはNLG(自然言語生成)を使ったレポート生成システムなどを運用している。数多くのデータを入力すると、そこからデータを分析した文書を生成するものだ。しかし文書生成アルゴリズムは人間と同じようには動作しない。

自然言語生成アルゴリズムを実際に使うにあたっては、人間と協業することで双方にとってベストの結果を生み出すことができる。たとえば人間の側で読者層を把握し、その対象に適したニュアンスを採用した書き方を心がける。そして機械の側は人間のみで作業していたならば膨大な時間がかかり、かつもしかすると見過ごされてしまうような分析を行なって情報を細かくかつ正確に提示することができるのだ。

他にも人間と機械のコラボレーションが期待される分野がたくさんある。たとえばアドバンスト・チェス(Advanced ChessないしCentaur Chess)もそのひとつだ。温暖化や地政学の話などにも有力とされている。機械が処理しやすい形にできるものについては、積極的に機械の助けを得るようにしていけば良いのだ。ただし、少なくとも近未来の範囲では、人間の介入が必要となる。

我々は機械ではない。もちろん機械もまた人類とは「異なる」存在だ。私たちは協働してコトにあたるべきなのだ。機械の側に「協働」の意識はないかもしれないが、それはまた人類の強みを示すものと理解すれば良いのだと思う。

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(翻訳:Maeda, H