
Wall Street JournalのJessica Vascelleroが今夜(米国時間12/24)、オンラインのソーシャルネットワーキングの上では“友だち(フレンド)”の定義が曖昧で難しいという記事を書き、数え切れないほと多くの人たちの心に不安を植え付けたようだ。残念ながら、その不安をぼくは今、ただ想像することしかできない。
20代以上のいわゆる大人のアメリカ人は、ほとんどの人がソーシャルネットワークというものの一般的な概念や姿を知りはじめたばかりだ。しかも、オンラインの友だちとは一体何か、を定義するルールは複雑でしかも刻々変化しているから、未知ゆえのストレスがさらに増える。
ある若い女性は、Facebookの上でデフレンド(defriend)した人にエレベーターの中で偶然出会い、罪の意識からその人を再びフレンドにした。ある中年の宝石商は、商売敵が彼をアンフレンド(unfriend)すると言ったことの意味が分からなくて、いらいらしている。一方、Web通のDavid Dalkaは、「ピーナツバターのブランドを変えたね」なんてどうでもいいよと言って、LinkedInのフレンドリストから誰かをあっさり消した。
ではでは、オンラインのフレンドって何じゃらほい?
ソーシャルネットワーク自身、そしてそこで長時間を過ごすぼくたちも、誰かとオンラインで友だちであることの具体的な定義について、まだ模索中だ。友だち関係には利益が伴う…その人に関する情報がたくさん得られる。でも、同時に費用も伴う…その人に関する情報を正しく読まなければならないし、また、自分の情報をさらけ出すことになる。
この問題と格闘したのがFacebookだ。一時このサイトは、ユーザがオンラインでフレンドにする人は事前にオフラインで知人だった人でなければならないというルールを設けた。このルールは最近微妙に変わったが、ただしやや緩くなっただけだ。
どんなサービスの上でも、フレンドの数が多ければ情報の中から選り分けるべきノイズも当然多くなる。現実世界では、友だちになりたくない人とは一緒に時間を過ごさなければいい。オンラインでは、安易にfriendボタンを押しがちだし、押さなければ失礼になる。そして、その報いがやってくる。
ソーシャルネットワークは2つのやり方でこの問題に対応している。MySpaceとFacebook(と類似サイト)には、フレンドを放り込む複数のバケツがある。そして各グループごとに、共有する情報の選別や加減ができる。だから、本当は友だちにしたくないが、フレンドリクエストを断るのは失礼かも、という相手は、「その他大勢」、「嫌なやつら」、「下司ども」などと名付けたバケツに入れて、それなりの対応をすればよい。
もう一つのやり方はTwitterやFriendfeedが採用している。誰もが、誰とでもつきあえて、相手が今何をやっているかも分かるが、応答が義務的でない。このやり方の問題点は、やはりどうしても、フォローしたり応答することが社会的なプレッシャーになりがちなことだ。ぼくは8月に、にせのフォローを提案して、とにかくフォローしているふりをせよと説いた。Friendfeedには、まさにその機能がある。
しかしフレンドをバケツに放り込むやり方は、硬直的な問題解決方法だ。それに、複数のサイトの上の何百何千もの人との変化していく関係を管理することは、リアルタイムの蟻地獄だ。将来的に各サービスは、ユーザのジェスチャから、その人が本当に親しい人やそうでない人を見分けるべきだ。また、共通のフレンドのないAさんとBさんは、それまで互いにまったく知らない間柄だった、というタイプの関係も定義できるといい。だから理論的には、まったく対話のない仲に関しても、FacebookやMySpaceなどのサイトは、個人情報の共有化の程度について一定の基準を持てるはずだ。
だが究極的には、ネットワークとその上のサービスだけでなく、ぼくたちの文化も急速に適応していくだろう。FacebookのMark Zuckerbergは、ユーザは前に比べてオンラインの情報共有化に前向きになっている、平気になってきている、と言った。ときどき(おっと、しょっちゅう)Facebookは、共有すべき情報の決め方が、ユーザであるぼくの気持ちよりもずっと大胆でラジカルだ。毎日どんどん変化している対象だから、Facebookはいつも思い切った先物買いをしている。それでときどき大損をこいているが、ただし毎回損をしているというわけではない。
とはいえ、彼らが正しいのは、オンラインの友だちの定義に関しては明確なものが何もないという一点だ。正しい定義と間違った定義を区別する、明確なラインもない。アルゴリズムと人間が折り合う点が、たぶん中間のどこかにあるのだろう。
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(翻訳:hiwa)




