2007年12月11日

ノーベル文学賞受賞者がインターネットをくさす―やれやれ

Duncan Riley

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nobel.jpg今回ノーベル文学賞を受賞したDoris Lessingが受賞スピーチで「インターネットは人類を愚かにした」と非難した。

Lessingは老齢と健康状態がすぐれないため、スピーチは自分で行わず、誰かに代読させた。そのスピーチによると、「空虚なインターネットが最近の世代を蝕んだため、われわれの文化は断片化され、誰も本を読まず、世界についてまったく無知になってしまった」のだそうだ。

どうやらコンピュータを学ぶと文化がわからなくなるということらしい。

われわれは断片化の時代に生きている。ほんの数十年前に確実な知識であったものが今やあやふやになってしまった。若い男女は長年教育を受けるが、世界について何一つ学ばず、何一つ読まず、専門知識を身につけるだけだ―たとえば、コンピュータなど。

Lessingの発言はその背景を考えてみる必要がある。伝統的な文化的エリートが(多くの場合、生まれながらに)享受していた社会における特権的地位が次第に腐食していくにつれて、無知な老婦人のうろたえた主張や、Andrew Keen流の反インターネット論などが声高に語られるようになっている。Andrew KeenやDoris Lessingのような人々はインターネットがなければまったく知識にアクセスできなかった人々にインターネットがどれほど知識をもたらし、恩恵となっているか考えようとしない。何億人というSNSのメンバーやブロガーの教養の低さを笑うことは簡単だが、それにもかかわらず21世紀は、コミュニケーションが真に民主化された時代、権力が少数者の独占から多数に分散された時代として記憶されることになるだろう。文化エリート主義者には言わせておくしかない。しかし彼らがなんと言おうとインターネットによって世界は良い方向に向かって動いており、エリート主義者がどうあがいてもそれを止めることはできない。

Lessingによればインターネットの人間は何も価値のあるものを読まず愚かになっているというのだが、それならWikipediaはどうなのか? 明らかにここではいろいろ価値のあることが読める。しかし紙の上に印刷してあるわけではないから、そういうものはLessingたちには無価値なのだろう。 :-)

The GuardianにLessingのスピーチの全文が掲載されている。インターネットに関する的はずれなコメントを除けば、大いに啓発される部分のある文章だと思う。

(写真: Marknad

[原文へ]

(翻訳:Namekawa, U)



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Comments

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  1. kuma

    これはあかん!!

  2. Too.late.interest

    インターネットが実現したのは、コミュニケーションの民主化ではなく、ただ、インフラを規格化しただけではないだろうか?資料や文献について、国際電話やファクシミリ、あまつさえエアメールでやり取りをしていた時代に比べて、情報へのアクセスが「便利にはなった」だけのはずだ。

    彼女の発言は「インターネットがなければまったく知識にアクセスできなかった人々にインターネットがどれだけの知識をもたらし、恩恵となっているか考えようとしない」のではなく、Wikipediaも然り、現在のインターネットから入手した情報程度では、恩恵とは呼びがたいほど経験のリバイバル性が低いことを示唆しているのではないだろうか?(別にそれで構わないと多くの場合、大衆はリテラシーしてしまうわけだし…)

    インターネットは、共有共感などボーダーレスの素晴らしさを私達に経験させてくれるが、それは互いの個の存在が許された場合の話。Amazonによって町の本屋さんは潰れていくし、as you like…と勧められるお勧め品ばかりで、断片化がすすむばかりな現実をみていると、「インターネットによって世界は良い方向に向かって動いている」なんて台詞は、残念ながら今の自分は口が裂けても言うことができない。

  3. beta_ajax

    インターネットが人類を愚かにした、とはある意味正解だ。
    無意味なコンテンツ、詐欺、こういうものが氾濫している。

    脳内でしか存在しないものが、幅を幅をきかせるような世の中になったのは、確かだ。
    いろいろな理論は仮説でしかない。それらがあたかも真実であるかのように、この世を変えていっている。

    しかし、人間の歴史は、この「夢みたいな」仮説のおかげで、ここまで人間の都合のいいように作られたのだ。何もインターネットだけが、世界を思い通りに変えたのではない。

    理論は、人間が作り出したものだ。
    しかし、自然は人間が作り出したものではない。

    ようするに、人間のエゴの塊が、インターネットの世界なり、科学一般そのものである。

    自然を変えよう、として行き着いたのが、インターネットの世界なら、
    この世界に、あきらかに自然に含まれて生きるしかない人間は住めない。

    極限まで、この世界を広げていくならば、たしかに人間は住みやすい環境、自然に打ち勝つ医療、望めばなんでも願いがかなう道具を手にして、幸せになるのかもしれない。

    逆に、それは自然の世界ではありえないこと、であるとも言える。

    たとえば人がいて、夢を語っていたとしよう。
    その人は、何でもかなう道具を持っている、といい、それを高い値段で人に売っていたとしよう。

    賢明なひとはそれを買わないだろう。
    それが現実にありえないことだと、賢明な人たちは知っているからである。

    人間は最後は死ぬ。
    100%の確率で、人は死ぬのだ。

    老人は、結局科学の力で、死を解決できなかった、と言っているのではないか?

    おおよそ、科学の力で解決できないものがある。

    人間の死と、そして、生きる事だ。

    科学はロボットを作ったが、人間の性能とは、比較にならないほど低機能だ。

    人間は、自分自身を作り出せない。

    自分自身を作り出すのは、自然でしかない。

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