[jp] Webコミュニケーションと「絶望の美学」, セキュリティは技術課題ではない

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最近はよく、突然頭の中でPavlov’s Dogの曲(Merseyなど)が鳴ることがある。そして彼らの曲と音は、アメリカのイナカの、名もなくさびれた地方都市の、若者の生活(日常生活)の中の、「絶望の美学」だなぁとひしひしと感じる(40年前のセントルイスってまあそんなものでは)。そこに、彼らの曲と音が人の心をつかむゆえんがある。あまり売れなかった理由でもあるだろうが、それ(グローバルに大売れしないこと)もまた、正常な淡々たる絶望の一部を成す。

そうこうしているうちに先日、テレビでたまたま、What’s Eating Gilbert Grape(邦題: 「ギルバート・グレープ」)という映画を見た。この、多くの人が“私のベストムービー”と言うだろうとすら想像できる上出来の映画の舞台が、私が感じるPavlov’s Dog的なさえないイナカ町で、また映画の内容がまさに「絶望の美学」なんだ。どうしようもない状態を、愛して、抱きしめて、淡々と引き受ける、というところからこの映画の厚い感動が強烈にもくもくと湧き出ている。

で、技術ってものは、中でもとくにアメリカ的技術観というやつは、つねに「希望」だらけでつねに安っぽくきらきらしている。たとえばインターネットのセキュリティ、Webのセキュリティも、完全解や無限の改良解があるはずだという希望を前提として研究と開発が進められている。そういうところに先日、それはhopelessだよと訴えるTechCrunchの記事、[Webのセキュリティ努力のゴールにあるのは「絶望」のみ]をたまたま訳す機会があった(そのいわば続編がこれ)。

その記事に触発されて、これから、Webコミュニケーションにおける絶望の美学の肯定論を書いていこうと思う。うまくいけば、これは私のベスト・エッセイになるだろう(と自分にプレッシャーをかけておく)。

だいたいとくに日本人の多くは現状(とそのクソ具体的な細部)固執型が多い…たとえば、超ヒマな人のみこの記事上の某氏の悲惨なコメント読んでみて…ので、私の書くことなんか考慮のコの字もされずに否定されることが多いが、でも私は、かねてから脱セキュリティは経済効果が高いと信じてるんだ。

別の言い方をすると、セキュリティまじめ信奉者は、高速道路無料化反対論者と似ている。“あんなもんタダにしたら、国庫収入がた落ち、失業者が多数出る(天下り先のスロットが一挙に大きく減る)、今後の道路整備〜道路メンテナンスも粗悪化する”等々と強く主張する。が、そういう人たちも今…自民党惨敗により無料化が現実味を帯びてきた…では、無料化した場合の経済効果のほうが、有料制を維持する場合に比べて格段に大きいことを、納得し始めているのではないだろうか。

脱セキュリティとは、セキュリティにおける「絶望の美学」で、セキュリティについてあきらめることなんだ。われわれの脳と心の手足が、セキュリティworrisomenessという大きな重い鉄球+鎖から解放されて自由になることから、みぞーゆーの経済効果が生まれるはず。そう言うと“そんな美学が蔓延するとWindowsにおけるサードパーティアプリケーション業界の最メジャーな部分が壊滅する”といった怒りの声が聞こえてくる。そうじゃなくて、セキュリティソフトが最メジャーなんて業界はほんまに情けない、悲しい、こんなのリセットされたほうがいい、と考えてくれよ。

問題はユーザ被害ですが、(1)絶望の美学においては、超高度に整備されたセキュリティ環境でも絶望の程度は50歩100歩だと考える…つまり、どっちに転んでもやられるときはやられる、と《現実的に》考える。むしろ、超高度なセキュリティの、有形無形のコストはどうなるのだ。そして、(2)本当にシリアスに被害金額の計算が成り立つようなセキュリティユーザ被害いうものは、実はそんなにない。この2点を中心にこれから述べていかなければならない。

セキュリティ思想が想定するネバネバ(never-never)ランド

われわれ文科系人間が、コンピュータの個人保有とそれらのネットワーク形成に多大な関心を持つとしたら、『人類のコミュニケーション能力の飛躍的な増大』以外にその要因はない。それは文字通り双方向〜多方向ネットワークというトポロジーにおいて、「個」と「個」のあいだのコミュニケーション能力を大きくし、自由にし、高効率にする。

しかし、同じ技術製品の事故でも、たとえば、歴史がとても長いのにいまだに(いたるところにいる==稀少ではない)鳥ごときで事故る航空機は、単純に技術の未完成でかたづけられるが、パーソナルコンピュータとそのネットワークの事故のうち、セキュリティという視野がカバーしているそれは、多くの場合、技術製品の事故というよりコミュニケーションの事故だ。

たとえばある種の情報詐欺なんてのも、おそらく人類社会に何万年も前から存在しているコミュニケーション事故の一つだ。コンピュータのソフトウェア(==プログラム)も人間の言語作品、いや言語表現だから、昔からつきものの、言ってしまった(書いてしまった)言葉から結果的に起きる…事前予測不可能な…いろんな事故を招くことに、なんの不思議もない。

人という生き物の性(さが)として、コミュニケーションには、事故はつきものである。しかもそれは、古代よりも現代のほうが多くて(往々にして)大きい。すなわちコミュニケーション事故は、解決解消とは逆の方向へ進化している。というか、昔に比べて今は人びとのコミュニケーション量が桁外れに膨大である。だからそのひずみやトラブルも、爆発的に増えている。

コミュニケーションマグニファイアである〈PC + NET〉は、コミュニケーション事故もマグニファイするのが当然。そこに、セキュリティの過重な懸念義務は、要らざるディストラクション==コミュニケーションの阻害要因になる。たとえば…Windowsが生んだ唯一のサードパーティ産業(皮肉)…ウィルス監視デーモンソフトはPCの足を鈍足化し、しかも、わけわかんないトラブルの原因になりがち。

で、本稿でもっとも重要な命題の一つをここで言うなら、コミュニケーションの事故はコミュニケーションを通じてしか解決しないということなのだ。解決のためのコミュニケーションももちろん、パーソナルコンピュータとネットワーキングにおいてはとても高効率にかつ柔軟性を伴ってできることは、言うまでもない。もひとつ重要なのは、解決のためのコミュニケーションもコミュニケーションであるからには事故に見舞われるということ。それは、技術事故の技術的解決のように単純明快ではない。

カナヅチを持ってると何もかもクギに見える、ということわざがあるけど、コンピュータ技術者〜コンピュータ科学者という人種にとっては、コンピュータやネットワークをめぐるあらゆる問題が、技術問題に見えてしまうのだろう。そこで、セキュリティを技術課題とみなす技術思想の持ち主は、技術によってコミュニケーション事故をなくせるという、never-never-landの住人になってしまうのだ。この錯誤のゆえに、技術課題としての(技術課題ではないのに!)セキュリティは、泥沼的な悪夢と化していく。

コミュニケーションの人間的現実や商業的現実にうとい、無菌のガラス瓶の中で生活している技術者は、コミュニケーションをより堅固により確実にするための付加的コミュニケーションを、コスト発生要因と言うかもしれない。しかし、そんなことはない。誠実にフレンドリにコミュニケーションが重ねられることによって、たとえば顧客のそのお店に対する信頼と好感度は上がるのだ。これに対し、完璧なセキュリティを目指す技術営為は、高コストであるばかりか、無限の見果てぬ夢でしかない。

最近は、[政府はベンディングマシーンではなくプラットホームたれ]という記事が、おもわずハトヤマさんにURLをプレゼントしたくなるほどおもしろかったが、基本的にパーソナルコンピューティングとネットワーキングも、「シンプルで便利で事故のないベンディングマシーン」を目指すのか、「その上で多様で複層的なコミュニケーション(事故とその解決努力も含む!)を高効率に展開できるプラットホーム」を目指すのかで、それが人類のempowerment、ひいてはとてつもなく大きなグローバルな経済活性化につながるか、つながらないかが決まるのじゃ。

どうもまだまだ舌足らずですが、このまま書き続けるとブログ記事としては長くなりすぎる+提出が遅くなりすぎるようなので、さらなる展開はまた機会を改めましょう。

[写真クレジット: [Amazon(CD Shop)]]

(筆者:iwatani(a.k.a. hiwa))