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著者のみなさん、次の作品はiBookではなくアプリであるべきだ

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[jp] Appleをめぐる永遠のすれ違い論議

本稿の著者Cody Brownは21歳、kommonsおよびNYU Localのファウンダーである。

ここ数週間、iPadがどう出版業界を変えるかについていやというほど語られてきたが、私が目にしたツイートやブログや論説を見る限り、単純な疑問が一つ完全に忘れられている。そもそも本は何のためにあるのか。

TechCrunchのPaul Carrが今日午前の記事でたまたまこの問題を提起していた。彼の意見はこんな感じだ。

A)iPadはKindleよりもお買い得、なぜなら本を読む以外にも使えるから。

B)本はiPad上の他のアプリケーションとは戦えない。画面が明るすぎることもあるが、主な理由はFlight Controlなどのゲームに気が散るから。

C)かくしていわゆる読書は、死ぬ。

Carrはある意味で正しい。たしかに読書は変わった。議論が抜けているのは、なぜそれが悪いのかだ。Carrの論理の根底にあるのは、本気の読者とそうでない読者の区別だ。彼の例に、New York Timesの記事を何段落かだけ読んでTwiterの投稿する人が出てくる。この読み方をCarrはこう定義する「地下鉄で女性にすり寄ることがセックスであるような読み方」。

彼の例は鮮やかだが強弁すぎだ。Carrは長さと質を混同しているし、さらに言えば、目的と手段を混同している。

著者の使命は読者に「全部の単語を読ませる」ことではない。単語本来の意味で意志を伝えることだ。Jeff JarvisであろうとDan Brownであろうと、持っているのはアイディアや物語であり、本はそれを世界に向けて表現する手段の一つである。

もしあなたが著者であり、iPadを次の自著を「出版する」場として見ているなら、完全にポイントがずれている。ジョージ・オーウェルがiPadを持っていたら何が起きると思うだろうか。印刷用に小説を書いて、次にiBookstore用にコピー&ペーストするだろうか。こう言ってもいい、彼は熱心な読書家がいなくなったことを嘆いただろうか。ノー。彼はこのメディアを研究してわれわれをアッと驚かせてくれるはずだ。

iPadで本を「始めから終りまで」読むことがすばらしい体験でないことは、より良いコミュニケーションの方法がこのデバイスに存在する限り問題ではない。iPadにはそれがある。そこで著者にとって大変なのは、iPadには表現の種類があまりに多くありすぎて圧倒されてしまうことだ。自分の本をアプリにしようと考えた途端に、あらゆる奇妙な問題に直面する。たとえば、自分の本を全部同時にアクセスできるようにするべきか。ゲームのように次の「章」へ行くためには何かテストに合格しなければならないようしてはどうか。本の中身は全部自分が作る必要があるのか。一部は自由に編集できるようにして買っくれた読者にやらせてはどうか。なぜ価格は$9.99なのか、$99.99ではいけないのか。iPadの機能の一つひとつが、著者の表現したいものを明快に表現するためのツールであると考え始めれば、読書が「死んだ」のではなく、今以上に洗練されていくだけであることがわかるだろう。

文筆テクニックがあるように、iPadテクニックがある。

私は21歳。私たちの世代を規定する「本」は印刷不可能であると大いなる自信をもって言える。すばらしいことだ。

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(翻訳:Nob Takahashi)