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「客観報道」という偽善―ニュースには記者の意見がもっと必要だ

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Fortune誌のテク系記者が、CNBCのAppleファンボーイ記者の後任に

ジャーナリストが自らの意見を公表したばかりに譴責されたり、解雇されたりする事態が続いている。憂慮すべきことだ。昨日(米国時間7/7)はOctavia Nasrが死亡したヒズボラの指導者をTwitterで賞賛したとしてCNNから解雇された。先月にはイスラエルについての発言のせいでHelen Thomasが辞任に追い込まれた。去年Washington Postは記者がソーシャルネットワークで意見を公表すること関して次のような制限を加えた。「本紙のジャーナリズムとしての中立性、信頼性を損なうおそれがあるので、政治的、人種的、宗教的、あるいは性に関して差別的あるいは偏向的と解釈されるような意見を公表してはならない」というのだ。こうした例は枚挙にいとまがない。

私はジャーナリストは記事中で自らの意見を述べる権利があるものと信じている。さらに重要なことだが、読者にも記者の意見を知る権利がある。率直に言って、CNNやFox Newsのジャーナリストの一部はきわめて馬鹿げた意見を抱いている。読者はできるかぎり早く、それがどれほど馬鹿げた意見か知る権利がある。ジャーナリストに意見を公開することを禁止するのは読者に対してウソをつくのと同じことだ。

数年前、私はニューヨークで開かれたあるディナーパーティーで全国的に有名な政治記者と隣合わせた。彼は70年代初期からのキャリアを持つベテランだった。われわれはニュースの取材や編集、テクノロジーがジャーナリズムに与える影響などについてたいへん興味深い会話を交わした。

ある時点で私はふと(当時の)ブッシュ大統領を国家の指導者としてどう思うかと尋ねた。彼は急に真剣な表情を浮かべ、「ノーコメントだ」と答えた。不思議に思って私は彼の支持政党を尋ねた。すると、これにもまた「ノーコメント」という答えが帰ってきた。自分の記事が偏向していると思われないようにするためにはこうした質問には答えられないのだ、と彼は説明した。

そこで激しい議論になった。

彼は支持する政治家がいるし、常にある特定の政党に投票していることを認めた。しかし支持する政治家や政党の名前を明かそうとはしなかった。私はこうした態度にその時も現在もまったく納得できずにいる。彼はプロのジャーナリストとしての自分の仕事はニュースを一方に偏することなく公平に報道することだと考えていた。「政治的信条を公表することはそうした客観性を損なうおそれがある」と彼は説明した。

それに対して私は「記者の政治的立場―偏向といってもよいが―を知ることは、読者にとってその記者の記事を正しく理解するための背景として不可欠だ」と主張した。記者が自分の立場を記事にまったく反映させないでいるなどということは不可能だと思う、とも言った。彼は「自分の個人的意見を記事にまったく持ち込まないようにすることがそもそもジャーナリストとしての訓練の第一歩なのだ」と反論した。しかし私の見たところ、彼の政治的立場は非常にはっきりしていた。彼はブッシュが大嫌いなはずだった。しかし彼はとうとうそれを白状しなかった。

彼の意見は間違っていると思う。形容詞一つ、余分の段落一つ、都合のいい引用一つ―それで記者は自分の意見が濃厚に出た記事を「中立的な客観報道」に見せかけることができる。

私自身がそういう偏向報道の対象になったことが数えきれないほどある―だから私は個人的に知っていて信頼できるジャーナリスト以外からのインタビューはできるかぎり断っている。一言口を滑らせると、相手は前後の脈絡などおかいましにそこだけを取り上げる。全体として私が何を言おうとしていたかなどには目もくれない。見出しに使えそうな人目を引く一句だけが必要なのだ。

昨年私はプロセスジャーナリズムを擁護する記事を書き、プロセスジャーナリズムは報道の正しい手法の一つだと主張した。記事の終わりのほうで私はこう書いた

「自分の意見を書くな。その意見を口にする人間を探してきて引用しろ」とジャーナリストは言う。こういう手法には身震いするほど不快になる。こうした手法で書かれた記事はまったくひどいものになる。客観的な記事を書くふりをして実は大いに主観的な記事を書いているのだ。そして取材相手の言葉を、編集長に命じられた記事の趣旨に合わせて歪めて引用する。こんなジャーナリズムは倫理的に最低だ。ところがそんな記事でも形式的には大学のジャーナリズム講座で教える「客観的報道」の条件に合致しているのかもしれない。しかしその実は何の根拠もない主観報道なのだ。

トップクラスのジャーナリストが自分の意見を言わせるための腹話術の人形を探しまわっているとは信じられない? とんでもない。今週Tim O’Reillyがこう苦情を言っている。

腹立たしいセンセーション狙いのMicrosoft記事

Ashee Vanceの記事には私が言ってもいないことが詰め込まれている。非常に腹立たしい。 http://www.nytimes.com/2010/07/05/technology/05soft.html?pagewanted=all

記者は私が言ったことにして自分の意見を述べている。

TechCrunchにははっきりとある立場をとった記事が掲載されることがあり、そのために一部からは非難を受けてきた。しかしわれわれはいつもどんな立場で記事を書いているのかはっきりさせているし、時にはタイトルそのもので立場を述べている。

「そんなのはジャーナリズムじゃない」という批判もある。意見は人それぞれなので私は別に気にしない。しかし誰もわれわれのことを読者に対して不誠実であると責めることはできないはずだ。われわれは自分の見たままに物事を伝える。われわれは決して事実を捏造したりいじくり回したりしない。自分で意見を言う代わりに、同じことを言ってくれる相手を求めて取材に出たりもしない。われわれは思ったとおりに記事を書く。他のジャーナリストには別の意見があるだろうし、別の手法を好むかもしれない。これを読んでいる読者自身も、やがて独自の意見を抱き、場合によっ
はブログに記事を書くかもしれない。今日では誰もが無料で出版ができる。それがデジタル時代がもたらした変化であり、ジャーナリズムはその変化に自らを対応させねばならない。

われわれは主観性を100%排除して文章を書くことは不可能だ。われわれはロボットではない。われわれは人間だ。他の何物でもなく、ある特定の題材を記事の対象として選んだということそのものが主観的選択なのだ。主観性はすでにそこに始まっている。Tim O’Reillyがリンクを張ったMicrosoftについての記事を注意深く読めば、筆者の主観がページに充満していることが見てとれるだろう。こうした事実は私自身がニュース報道に携わるようになるまではっきりとは分からなかった。今では記事を一目見ただけで、巧みに変装していようとあからさまであろうと筆者が主観的な立場をどのように持ち込んでいるか即座に指摘することができる。「報道の客観性」などというたわ言はジャーナリストが信頼性を偽装するトリックであって、それを大衆が真に受けているにすぎない。この問題についてはまた別に記事(いやそれどころか本1冊)を書く必要がある。

われわれは、まずは「客観報道」の美名に隠されたこうした深く暗い秘密を読者の前に提出しておくことにする。

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(翻訳:滑川海彦/namekawa01