絞首台と化しそうだったTwitter

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ハロウィーンの日(米国時間10/31)の午後、ニューヨークに住むあるブロガーが、道端に並んだ子どもたちが通りかかる車に石や卵を投げつけているのを目にした。911に電話をしたあと彼は自宅に戻り、その子たちをFacebook上で探し当て、自分の”フレンド”にした。すると彼の予想どおり、そのちびっ子チンピラたち(と思われる連中)はステータスアップデートで自分たちの犯罪を自慢し始めた。ブロガーはそのことを、一般公開記事として共有した

二日前(米国時間11/5)には、またまたブロガー…今度は女性で大手インターネット企業の社員…が、自分の会社ではないインターネット企業の男性社員に性的暴行を受けたと主張した。そう主張するその女性ブロガーは、警察に話しただけでなく、ブログの公開記事で、彼女が暴行者だと主張する人物に実名入りで汚名を着せた。

どちらの場合も、インターネットの反応は素早かった。多くのブロガーたちや、Twitterユーザ、Facebookユーザらが彼女の主張を再投稿/リツイートし、罪と罰の明確化を求めた。

こうして、今日(こんにち)のサイバー自警団が拡大していった。

もちろん、私も常識人の一人だから、そのいわゆる性的暴行を、単純に捏造だとか誇張だと言い張るコメントには与(くみ)しない。証拠も法的根拠もないのに、性的暴行と聞くとすぐに、”捏造!”と反応するタイプの人たちが、世の中にはいる。性犯罪の多くが、被害者の沈黙や泣き寝入りで終わりがちなのは、そういう声高な声があるからだ。

しかし他方には、被害者を名乗る人物が犯人と名指しした人物は絶対に有罪だ、と思い込むタイプの人たちもいる。

イギリス人である私にとって、アメリカの大衆文化のオドロキの一つがNancy Graceだ。いや、Grace自身はすばらしい人だと私も思う。問題は、彼女のレギュラー番組だ。その番組を初めて見たときは、自分の目と耳を疑った。ゴールデンアワーのテレビに女性が出演して、今現在進行中の刑事裁判をおおっぴらに議論している。しかも、被告が無罪だ有罪だという意見まで述べている。こりゃーひどい、と私は思った。

イギリスでは(というか公正な社会では)、Nancy Graceは刑務所行きだ。審理中の裁判について(実際の裁判がまだ始まってない被告の逮捕の直後以降も含め)、メディアが有罪無罪を云々することは、要するに許されない。もししたら、法廷侮辱になる。また、誰かの有罪無罪説をジャーナリストが記事にすることも、許されない。ただし裁判が始まったら、法廷で行われた声明は、それがあくまでも誰それの”主張”であることを明記したうえで、報道してよい。しかしいずれにしても、「法廷で有罪と立証されるまでは非・有罪」という原則は、おおむね、神聖にして不可侵なのだ。

しかし今日では、イギリスでもその原則は揺らいでいる。ソーシャルメディアがあるおかげで、裁判開始の前はおろか逮捕前でも、誰かを重大犯罪で名指しで告発することが、誰にでもできる。従来は、逮捕前に嫌疑が報道されることはなかった。

そして名指しが行われると、裁判の始まる前に判決が決まってしまう。被疑者が無罪か有罪かとは関係なく、彼らは終身刑を言い渡される。会社に就職しようと思っても、誰かと友だちになりたいと思っても、相手がその名前をGoogleで検索したとたん、犯罪の嫌疑が分かってしまう。それは、一生涯つきまとう。実際の刑期はなくても、嫌疑が有罪と同じ罰を貼り付ける。一生涯、職に就けない、友だちができない、社会の除(の)け者になってしまうという罰だ。インターネットは、嘘の嫌疑で誰かの一生を台無しにしてしまうための、恰好の手段だ。それがまったく嘘であっても、いったん告発や嫌疑をかけられた者は、有罪者と同じく破滅の人生を歩むことになりがちなのだ。

もちろん、その人が実際に有罪だったということはありえる。そういうケースは、とても多い。そしてその場合は、被害者が暴行者を名指ししてもいいじゃないか、という議論が成り立つかもしれない。しかも、名指ししたほうが、多くの人が関心を持ってくれるだろう。しかし、”有罪だった”というのは、あくまでも、相当時間がたったあとの、裁判の結果であり、誰かが名指しで告発しようとしている時点では有罪が100%確定しているわけではない。インターネットやマスコミ等の上で犯人が名指しで非難されてもよいのは、法廷で有罪が確定したあとだ。それが、犯罪の代償というものだ。

実際に、何かの間違いで、または意図的に、犯罪を犯していないのに告発された人は、われわれが軽挙妄動を抑え、法の裁きが下るまでは軽々に彼/彼女を嫌疑者として名指ししない、という良識を持つかどうか、そのことに、彼/彼女の今後の人生のすべてがかかっているのだ。彼らにとっては、われわれの良識が唯一の頼りである。

以上を前置きとして、最後に本誌の楽屋裏話をすこし述べよう。

慧眼の読者は気づいておられると思うが、本誌TechCrunchは、暴行者を名指ししたブログ記事が出た直後に、その”事件”を報じたメディアの一つだ。その後記事はサイトから消え、今度は本誌の新しい親会社(AOL)が編集長のMike Arringtonに記事の取り下げを命じたという、やや漫画チックな嫌疑が生じた(漫画チックというのは、AOLの人は誰もTechCrunchを読んでいないと思うからだ)。

実際には、上記のような理由により、記事を削除すべきとMikeが判断したのだ。記事を書いたAlexiaは、彼の判断に同意した。Mikeは前にも書いたことがあるが、どんなにおもしろい記事でも、立証されていない嫌疑や告発は報道すべきでない、と考えている。記事の削除は、彼のその方針に従うものだ。

あの記事がTechCrunchに登場したとき、私は幻滅したか?。たしかに幻滅はした。でも同時に、記者本人には、これを見逃すわけにはいかない、という大きなプレッシャーがあっただろうことも、十分理解できた。誰もが、つねに必ず正しく振る舞うことは、難しいしあり得ない。今回の一件を契機として、誰かの人生を滅ぼしかねないような記事は、投稿する前に一考する、という習慣がつけばいいのだが。

何にもまして、おもしろさやセンセーショナリズムよりも常識と良識を優先するメディアに自分が職を得たことを、誇りに思いたい。とりわけ、正しいことの実行には、往々にして勇気が要るのだから。

アップデート: この記事にコメントを投稿できないようにしたのは、未決の事件について議論すべきでないという主張を、あくまでも貫きたいからだ。)

〔余計な訳注: 日本の裁判員教育に、この映画が使われている、という噂があります。〕

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(翻訳:iwatani(a.k.a. hiwa))