インターネットは人権か?

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ノー。

少なくともこれが、TCP/IP、IEEE、そしてGoogleで名声を馳せたVint CerfがNew York Timesの記事で下した判断だ。しかし、その意図は、炎上を誘うこの記事タイトルよりも微妙だ。ずっと地味に「テクノロジーは権利を実現する手段であり、権利そのものではない」と何段落か後に書かれた言葉こそが、彼の見解を正確に表している。

これは扱いの難しい話題だ。それは、これが本質的に可燃性の高いテーマだからではなく、「権利」が何を意味するのか、「インターネット」が何を意味するのかを、正確に特定することが困難だからだ。用語の定義なしには、いかなる主張も意味をなさない。しかし、ちょっとした思考を働かせれば、Cerfの立場も、それに異議を唱える人々の立場も難を免れることができそうだ。

第一に、〈人権〉とは何かを市民権や特権との違いから考えてみよう。人権とは、不可分の、基本的な、人間として存在している事実に基づく権利である。これは、市民権(政府によって普遍的に与えられる権利)や、いかなる形によっても保証されない特権と同じではない。特権や市民権を奪うことは、ある人から、他の人が持ち得るのと同じ物を持つ権利を制限することだ。人権を奪うことは、その人が人間であることを妨げる。

次に、インターネットとは何か? それはコミュニケーションの一手段に過ぎない。電話や狼煙と同じように。それは新しく、強力だが、本質は異ならない。

ある人から狼煙をあげる能力を奪うことは、その人の人間的立場の存続を妨げることになるだろうか。ならない ― 子供を持つことや基礎教育を受けることを妨げたり、拷問を加え、奴隷にすることが、それであたる。それが人権である、しかし、これをインターネットの思想と比較することは、見当外れではない。インターネットは、人類が作った最も変革力を持ち重要な成果の一つである。しかし、そのことによって〈権利〉にはならない。
人間の持つ権利は、表現と結社の自由である。一人きり、あるいは口を塞がれている人間は、人間ではない。しかし、革命家たちが昨年示したように(そして今も、公衆の目に触れることは減ったが示し続けている)、彼らはそこにインターネットがあれば使い、なければ使わない。同じ目的、表現と結社の自由のために。インターネットは、実現を可能にするもの、道具である ― ただし非常に重要な。

市民権あるいは普遍的サービスとしての状況は、国によって異なる。しかし、この国連報告書の主張は当を得ている。

〈前略〉表現の自由の権利を完全に保証することは基本とすべきであり、あらゆる制限は例外と見なす。そしてこの原則が覆されることがあってはならない。

言い換えれば、仮に権利者が表現のための道具一式を提供できない、あるいは不必要不条理に制限を加えるなら、それは基本的人権の保証不履行であると十分に考えられる。これは、Cerfの立場と、インターネットを史上最重要なコミュニケーション手段であると正当に考える人々の立場の両方を認めるものだ。

では、インターネットは人権か? それは、われわれが普遍的な表現の自由を達成するための、最良かつ最も効果的な方法であり、それなりに扱われるべきだ。しかし、一部の人々のように、実際には単なる強力な実現手段の一つであるものを人権として神聖化することは、必要のない行為だ。法律や規制、あるいは国連のガイドライン等は、派生的な形でなく、純粋かつ時代を超越した形で権利を法制化することを目指すべきである。いかにその派生物が広く普及し重要であるとしても。

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(翻訳:Nob Takahashi)