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Twitterと民主主義とインターネットの自由

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編集部注:Richard FontaineはCenter for a New American Securityのシニア・アドバイザーで、『Internet Freedom: A Foreign Policy Imperative in the Digital Age』[仮訳:インターネットの自由:デジタル時代に必須の外交政策]の共著者である。Twitterアカウントは@rhfontaine

ここ数日Twitterは、同社の新しい検閲方針がインターネットの自由を脅かすことを恐れる活動家やブロガーたちを怒らせている。ニュース記事を見ていると、抗議運動家が独裁に反対するためにTwitterを利用した方法を思い出させる。そして反体制派たちは彼らのコミュニケーション手段が損われることへの懸念を表している。しかし、もっと目先の問題は他にある。Twitterの新しい方針は、インターネットの自由と民主政治の複雑な関係をありありと示しているのだ。

その複雑性は、インターネットの自由に関する米国の世界戦略を踏まえると、益々重要性を帯びてくる。米国政府はインターネットの自由を推進する積極方針を第2期ジョージ・W・ブッシュ政権時代に開始し、オバマ政権はその取り組みを加速した。国務省は、ネット上の反体制派のためのテクノロジーと訓練のサポートに数千万ドルを投じ、ヒラリー・クリントンはこの問題に焦点を当てる一連の重要な演説を行った。ある演説で、彼女はフランクリン・ルーズベルトの有名な四つの自由に五番目 ― 「つながる自由」― を加え、「情報ネットワークの広がりは、この地球に新しい神経系を形成する」と述べた。

インターネットの自由を巡る論争で二者の対立が起きることは容易に想像できる。民主主義は誰もがつながる自由を尊重し、独裁権力は検閲、監視し妨害する。実際、これまでインターネットの自由の信念を貫くことは、一般に独裁政治と戦うことを意味していた。中国の万里のファアーウォール、2011年の反対運動でエジプトのインターネットを遮断したムバラク政権、あるいはイランの国内反体制派に対する体系的監視。しかし、最近徐々に明らかになってきたのは、インターネットの自由に挑んでいるのは独裁政権だけではないということだ。民主政治もである。

新方針を説明するブログ記事 で、Twitterがこの真実をついて、同社は「表現の自由の輪郭に関して」米国とは「異なる考えを持つ国々」に参入していくと言っている。どの民主主義も表現の自由をある程度制限しているが、禁止された表現の形態は、児童ポルノ(事実上全世界で禁止)から憎悪発言(ヨーロッパ等で禁止されているが米国ではされていない)、国独自の表現(国民的英雄や絶対君主の批判)まで様々である。

米国は、しかし、異端だ。合衆国は表現の自由にいくつかの制限を定めている ― 中傷、偽証、「挑戦的発言」などいくつかの表現形態は、オンライン、オフラインを問わず違法だ ― しかし、この国の表現の自由に対する傾倒は、あらゆる主要国の中で最も絶対的である。このことが、インターネット上の表現に対する合法的制約が何がであるかに関して、他の民主主義国家との潜在的紛争要因となっている。インターネットの自由の世界最大の支持者、という米国政府の役割もまた、他の民主主義国家をまとめようとする取り組みを複雑なものにしている。

民主的習慣の違いの例はいくらでもある。例えば、最近インドのカピル・シバル通信大臣は、Google、Yahoo、Facebookらに対して、インド国民会議派のリーダーを侮辱すると見なされるコンテンツの削除を要求した。シバル氏は、企業が行わないのであれば、同国政府が何らかの行動を起こすことを誓約した。今月関連する訴訟の公聴会で、インド最高裁判所は、有害コンテンツ運営者が削除しなければ、政府は「中国と同様」にそのウェブサイトを全面的に遮断することができると発言した。トルコは、ムスタファ・ケマル・アタテュルクを侮辱しているとトルコ裁判所が見なしたビデオの削除を拒否した、という理由でYouTubeを2年間遮断した。ドイツ等の国々では、ネット上のホロコースト否定を禁止している。フランスはインターネットでのナチ関連品の販売を禁止している。英国、イタリア、ドイツの各政府はブロックしたウェブサイトのリストを作成しているが ― 主として児童ポルノ、憎悪発言、ネット上のギャンブルプラットフォーム等 ― 必ずしもリストに透明性はない。

これらの相違は国内だけでなく国際法に関しても起きる。デンマーク、フランス、スロベニア、およびスイスを含むいくつかのヨーロッパの民主国家は、サイバー犯罪に関するヨーロッパ協定の追加条項に調印した。そこには、コンピューターを利用した外国人を憎悪するコンテンツの配布や、人種、宗教、あるいは出身種族を理由とする侮辱行為を犯罪と見なすことが求められている。

合衆国もまた、特有の潜在的矛盾に曝されている。クリントン長官はインターネットの自由に関するある重要演説の場を利用して、ウィキリークスが大量の機密外交公電を公開した件に対して、なぜこの概念が適用されないかを説明した。地区検事長は最近、合法的傍受権限の一環として、司法省がTwitterのフィードを差し押さえることができるという裁定を下した。そして、オンライン海賊行為防止法案(SOPA)を巡っては膨大な議論が巻き起こっている。

真実はといえば、米国政府は今後も常に、表現の自由に対してある程度の制限を強要していくだろう。そしてわが国の政治体制はどこに制限の線を引くかという難題に苦しみ続けるたろう。しかし、これが世界的なインターネットの自由を推進するという、重要な大義を弱めることがあってはならない。独裁政権は、ネット上の表現を禁止する民主主義国家を例に挙げて、自らに対する批判や圧力を遮断しようと試みるに違いない。彼らからその機会を首尾よく奪うためには、民主主義国家によるネット表現に対する制約と、多くの独裁国家が支持する抑圧との違いを、米国他の国々が公に、一貫性をもって明確に述べる必要がある。

違いは禁止される表現の種類だけでなく、制約を課たす決断のプロセスにもある。真の民主主義による表現形態の規制は、法律と規則に基づき、決められた手続きに沿って決定される。一般にその宣告には透明性があり、政策決定者は法律、立法府に対して、究極的には、彼らを選挙で追い出すことのできる国民に対して説明責任を負っている。「安全」上の理由で表現を規制し、国民はその決定が何であり、誰が決め、どうやって変えるのかを知っている民主主義国家と、自身の「安全」を脅かす発言を独裁的命令によって禁止する独裁国家との間には、天と地ほどの開きがある。

この区別を明確にすることは決定的に重要だ。そうすることで米国がインターネットの自由を推進する外交努力に役立つとともに、地元の政治家を誘導する助けにもなるだろう。この困難な新しい問題を解決するためには、テクノロジーや法律、基本原則に関する複雑な考慮が関係する。何がインターネットの民主的アプローチを際立たせているのかを思い出せば、違うことを示唆する方策の犠牲にならずに済むかもしれない。

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(翻訳:Nob Takahashi)