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「初めて」を懐かしむのは歳をとった証拠、あるいはスティーブ・ジョブズが本当にもたらしたもの

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appleIIスティーブ・ジョブズの一周忌を迎え、テクノロジーがいったい自分にどのようなインパクトを与えたのかを考えてみた。あるいはまた、今の子供たちはどのような時代を生きていくことになるのだろうと想像したりもした。そんな中、最初に使ったコンピュータのことや、当時のコンピュータでできたこと、そして今のコンピュータでできることなどを考えてみたのだった。そこでふと思い当たった。最初のコンピュータなどについて思いを巡らせたりするのは「トシヨリ」のすることに違いない。

笑わないで欲しいのだけれど、自分では年齢は重ねても「トシヨリ」仲間には入っていないつもりでいた。パンチカード世代とは年齢差もある。しかしどうやら「トシヨリ」グループの一員になってしまっているようなのだ。

皆さんは、自分のお金で最初に買ったコンピュータが何だったかご記憶だろうか。Apple IIや、カラーバリエーションのあったiMacだという人もいるかもしれない。私の場合は安くてコンピュータ色(ベージュ)をしたGatewayだった(お金もなかったし、セールだったのだ)。OSにはWindows 98が搭載されていた。頻繁にクラッシュもした。何度もブルースクリーン状態になって、サポートセンターと何時間も電話のやり取りをしたりもした。OSのリストアやBIOS設定を行うはめにもなった。そうこうするうちにPCがどのような仕組みで動作しているのかを勉強することになったりもした。そしてそれが結局人生を変えたのだった。コンピュータが面白いものであると認識し、もっと知りたいと思うようになったのだった。大学でコンピュータを勉強して、IT業界で数年間働いた。そして今、テック企業やスタートアップについての記事を書く自分がここにいるというわけだ。

ただ、そんな経験は大昔の人のものとなりつつある様子。「最初のコンピュータだなんて意味がわかんないよ」と子供たちは言うようになってくる。私の世代でいえば「最初の電子レンジはどんなの」とか、あるいはテレビや掃除機を初めて目にしたときはどんなだったかと問われるようなものなのかもしれない。むしろ子供たちにとっては、コンピュータがトースターやクーラーのように、「そもそもそこにある」ものでなかったという事実の方が驚異的に感じるようになるだろう。iPadがいかに誕生して、そしてそれまでの生活を一新したのかなどという感覚も全く通じなくなる日がすぐにもやってきそうだ。

おそらくは今の子供たちに「昔は携帯電話がなくてね」というのと同じような感じになるのだろう。「携帯がないなんて不便すぎる」と子供たちは言う。昔は電話番号とは覚えておくべきものだった。誰にも連絡を取ることができず、外出先でうろうろとさまようはめになったこともある。車のタイヤがパンクしたり、あるいはガス欠になったりすると、見知らぬ人の親切に頼る以外に方法はなかった。親たちはいったん子供がでかけると居場所を知る術をもたなかった。親で思い出したけれど、サマーキャンプから手紙を書いたこともある。そういえば「ペンパル」とも手紙のやり取りをしていた。いつでも手紙を出せるように、切手は必ず常備していた。「ペンパルとか何世紀前の話をしてるの」などと子供たちには笑われる。

同様に、最初コンピュータどのようなものだったかを懐かしく語ったりするのも、「トシヨリの振る舞い」に分類されてしまうようになるのだろう。子供たちは親からお下がりのiPadをもらったりするようになる。生まれた時から既にiPadが存在しているという世代も間もなく育ち始めるわけだ。当たり前のことを言っているのはよくわかっている。でもこのことについてちょっと考えてみて欲しいのだ。そうした子供たちにとっては、iPadというものも何ら新規性を持つものではない。空気や日光、植物や動物、家や車、高層ビルや高速道路、人形と自転車。そうしたものと同列にテレビ、そしてiPadが存在するわけだ。

iPadは特別な存在ではなくなる。

驚くべき薄さを実現した素晴らしいデバイス、などというものでもなくなるのだ。

キーボードやマウスがないという特徴も「あたりまえ」として受け取られる。画面にタッチしたり、あるいはゲームの時に本体を傾けたりするのも何ら驚くことではなくなる。それこそが普通のことになるわけだ。それこそがコンピュータの姿として受け取られるわけだ(コンピュータという用語もトシヨリしか使わなくなるのかもしれない)。

「iPadはiPadだよ」と、自然に操作する子供たちが増えていくのだ。

家族の中では私が最初にiPadを使い始めた。イースターには義理の妹にプレゼントした。妹の家族は1日中iPadを取り合って遊んでいた。タッチスクリーンを搭載した、全く新しいコンピュータが珍しくて、そして面白かったのだ。本体だけでも面白いものだったのに、さらにはいろいろなアプリケーションもある。ゲームで遊ぶこともできた。まさに史上初のファミリーコンピュータとでも呼ぶべきものだった。それまでのコンピュータと違い、家族の誰もが使うことができたからだ。最初は子供たちのほうが興味をもつのかとも考えていた。しかし結局年齢には関係なく、誰もがiPadに夢中になった。子供たちがゲームで遊び、そして大人たちもそれに加わる。おばあさんも孫の写真を見るのにiPadを使う。Netflixを見て楽しむ人もいれば、ウェブの閲覧をするのにも使える。新しいものの到来に歓喜する姿を目の当たりにすることができたわけだ。

ただし、実はそのときですら、iPadというのは新しいものでありながらも「日常」のものであることこそが、皆に受け入れられる要因だったのだ。自然に触ってみることができた。使うためのレッスンなどは必要なかった。電源を入れればすぐに誰でも使うことができたのだ。以前に書いた記事を引用しておく。

家族と離れてひとり画面に向き合う。かちゃかちゃとキーボードの上に指を走らせる。コンピュータというものがそうしたものであった時代は過ぎ去ろうとしている。家庭の中の誰もが使うことができ、子供たちは画面を見つめて一緒に楽しんだりすることができるようになった。隣の人と隔絶して自分だけの世界に入り込んでコンピュータを使うという時代は去ったのだ。コンピュータは完全に日用品として生活に入り込んできた。iPad最大の魅力は、テクノロジーを背後に隠してしまったことだ。iPad自体ではなく、「iPadでできること」を魅力として世の中に提示しているのだ。

12月に3歳になる私の娘は、生まれながらにしてiPadに触れていることになる。彼女がNetflixを立ちあげて見たい番組を探し、そして再生している姿を見ると驚きも感じる。しかし彼女にとってはそれが自然なことなのだ。レゴを楽しむことや、あるいは靴を履くという日常動作とも特別の差はない。iPadの操作というのも「日常動作」(Life Skill)に過ぎないわけだ。

そういう時代が訪れることに驚く。そして驚くこと自体、自分がトシヨリグループに入りつつあることを暴露するのだ。

「ただiPadで遊んでいるだけなのに、何をそんなに驚くの?」などと、子どもに言われてしまうわけだ。

認めよう。私の世代には、それが「驚き」なのだ。

Image credits: BuzzFeed; I’m sorry Josie. 

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(翻訳:Maeda, H)