2013年に振り返る1836年の出版革命 ― 出版界のこれからとは?

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PhilVilla編集部注Phil Dwyerは作家兼フリーランスライターで、90年代には急成長を遂げた英国テック系メディアであるNMAでエディターの職にあった。Twitterは@phildwyerでフォローできる。ブログでの活動も積極的に行なっている。

出版業界は混乱の時期を迎えた。繰り返し襲ってくる景気後退の波が、中小出版社を破滅に追い込み、大手に関しても新たな策など何も生み出せないという状況に叩き込まれることとなった。政治的な動揺も、出版業界のあり方についてさまざまな言説を生むようになる。

こうした時代の中、構造シフトが出版界を巡る状況を一変させようとしている。この構造シフトの影響はさまざまな場面に及ぶこととなりそうだ。生産価格を抑えることができるようになり、そして新たな販路開拓が可能となる。以前は考えることもできなかったマーケットを販路として考慮することが可能になるのだ。出版社にとっての顧客たる読者の社会構造も大きな変化を迎えることとなる。

これまでの出版界を全く変革してしまう動きに乗り出そうとしてたのは、ひとりの若い作家だ。「出版社、流通、販売方式、著者と出版社の関係、著作権に関する取り扱い、そして小説の形式それ自体も全く変化させてしまうことになる」。

この話、実は現代のことではない。1836年のことだ。

「若い作家」とはチャールズ・ディケンズのこと。出版界を巡る状況を一切変えてしまった動きとは、『ピクウィック・ペーパーズ』を月間分冊の形で出版したことを指している。

第一分冊(この本は20ヵ月にわたって19巻に分けて出版された)は1000部刷られたようだが、当時の書類を見ると販売部数は400部未満に留まったようだ。しかし1837年10月に発行された最終巻は40,000部が刷られて売り切れになったそうだ。

『ピクウィック・ペーパーズ』が世に与えたインパクトについては、いくら語っても語りすぎるということはあるまい。この後の30年間、月間分冊形式というのは人気のスタイルとして定着することとなった。ビクトリア時代の出版文化を民主化し、本を買うという文化を大いに広めることとなったのだった。そして出版社および作家にも大いに利益をもたらすこととなった。ディケンズは、現代におけるロックスターのような人気を集めることとなった。ディケンズ自身も、そして出版社であるChapman and Hallも、この動きがかくまで成功をおさめるとは想像できなかったに違いない。出版界のあり方にも革命をもたらすこととなった。

ただしこのことが「革命的」となったのは、分冊形式にしたという、形式的面のみにあったのではなさそうだ。形式自体は100年も前に登場していたらしい。それが、ディケンズのときまで、世の中に対して影響を与えることはほとんどなかったのだ。ディケンズの『ピクウィック・ペーパーズ』が強い影響を及ぼした理由とは、ディケンズ自身の魅力と、そして「タイミング」であった。ちょうどこの時期に「読者」というものが多く誕生したのだ。すなわち産業革命が「労働者」という階級を新たに生み出した。金持ち階級ではないので、従来出版されていた書籍を自由に買い求めるということはできなかった。しかし読み書きをマスターしており、分冊形式で出版される本ならば購入できる程度のお金を持っていた。

さて、時を177年分、早送りしよう。2013年に到着だ。出版界は、分冊発行がビクトリア時代の出版界に多大な影響を与えて以来の、大きな革命期にある。今回、この革命を引き起こしたのは「デジタル化」だ。十年ほど前に音楽業界が既に学んだように、やはり物質的存在をデジタル化するというのは大変なことのようだ。しかしここまで述べたように「革命」は既に200年近く前に経験している。何か違いがあるのだろうか。

実は『ピクウィック・ペーパーズ』がもたらした革命と、今回の電子書籍革命の間には大きな違いがある。すなわち『ピクウィック・ペーパーズ』は「読者」の方に革命をもたらし、そして電子書籍革命というのは実はライターや、書くこと自体に革命をもたらすものなのだ。電子書籍は迅速に、安く、比較的簡単に出版して流通させることができる。従来のように数多くの障壁(エージェント、編集者、出版社のマーケティングエグゼクティブなどなど、数え上げればきりがない)を超えなければ、著書が世に出ていかないという状況でもなくなってきている。誰もが電子書籍を自分で出版できるような時代になったのだ(少なくとも出せそうだという気は誰もが抱くようになっている)。

これは出版社や作家にとってチャンスなのだろうか、それとも何らかの危機なのだろうか。

おそらくどちらでもあるのだろう。

誰もが認めるように、物語が消え去ることはなさそうだ。良い話に対するニーズは常にある。しかし確実なのはそれだけで、その他の部分というのはすべて流動的であるというのが実際のところであるようだ。作家たちは、名の知られている人も含めて、自己出版を手がけ始めている。リスクを避けたがる出版社に売り込めないプロジェクトを抱えるエージェントたちも、出版社に頼るのではなく自己出版の道を探り始めている。あるいは出版社自身も「自己出版」の形を取り込もうとしているようだ。たとえば昨年夏にPenguinは、1億1600万ドルでAuthor Solutions Inc.を買収し、歴史ある大手出版社としては初めて、社内に自己出版部門を持つにいたった。

実のところ出版社が一番苦しい立場にあるのかもしれない。数十年来の出版不振に見舞われて、無駄な脂肪のみならず、筋肉もそぎ落とされてしまっている。そんなわけで作家は編集作業も自分で行い、PRやマーケティング、装丁などまで自らで行うことが期待されるような状況になってきている。出版社が行うのは書店とのネットワークを通じての配本作業のみという状況すらある。そんな中、電子書籍であれば書店を必要としない。販売されるのはAppleやAmazonなどの運営するショップにおいてだ。カナダの代表的書籍チェーンであるIndigoは、他から仕掛けられる前に自らKoboを通じた電子書籍販売を行い、共食い的状況を招いたりもした。

とにもかくにも、出版界は新たな時代を迎えつつある。しかしどういうスタイルが受け入れられるのか、どのようなスタイルが登場してくるのか、全く予想がつかない状況だ。混乱の極みにあり、作家たちも困惑しているのが現状だと言える。

そのような中、売れていない作家(たいていの作家はこのカテゴリに属する)は、いったい何を考えているのだろうか。混乱する出版界ないし出版社を見て、そもそも出版社など不必要なのではないかと考える人も多い。編集やPR、マーケティングから装丁までも持ち出しで行う必要があり、宣伝もTwitterやブログで行なっているのに、なぜ利益の9割は出版社に持っていかれてしまうのだろう。

また、電子書籍は出版関連の経済システムを大いに組み替えることとなり、自己出版とは売れない作家による虚栄心によるものという印象も拭い去りつつある。多くの有名作家が電子出版による書籍を刊行しつつあり、Joe Konrath、John Locke、あるいはAmanda Hockingなども自己出版によって大いに本を売っている。

今や、電子書籍は広く受け入れられており、十分な読者を獲得できるような時代になってきている。転機は2010年の10月ないし11月頃にあったようだ。2012年の5月にAmazonは、紙の書籍を100冊売るうちに、105冊の電子書籍が売れるようになったと発表している。

また、出版社はエージェントや編集者を擁して、永らく「品質」の守護者を自認してきた面もあった。どうしようもない物を葬り去るという役割も担ってきたわけだ。その部分をスキップすることで、これまでは葬られていたはずのものも多く出版されるようになっている。E.L. Jamesの「50 shades」シリーズの大成功にもよって、こうした傾向にはますます拍車がかかってきているようだ。昨年は211,000冊が自己出版され(2010年の133,000冊から58%増)、そのうち41%が電子書籍となっている(Book Expo America 2012における、Bowkerの出版サービス部門VPのKelly Gallagherによる)。

但し、電子書籍が冊数的には41%を占めているのだが、Bowkerによると売上額では11%に過ぎないそうだ。自己出版された電子書籍の平均価格は3ドル18セントとなっている(ペーパーバックやハードカバーの平均価格はそれぞれ12ドル68セントおよび14ドル40セントとなっている)。

これはある面ではビクトリア時代の繰り返しということもできよう。安価な小説が「読書」というものを大衆化しているわけだ。また、「出版」の面でも当時を彷彿とさせるところがある。すなわちディケンズの時代、鉄道の普及により書籍は出版とほぼ同時に地方の人の手に渡るようになった。イギリス国内のどこに住んでいても関係なく、ほぼ同時に入手することができたわけだ。それまではたとえばThe Timesなどでも流通に数週間かかったりもしていたので、大きな進歩というべきものが起こったわけだった。電子書籍もまた同様の働きをしている。本屋を手元のパソコン内に移して、購入して数秒後には本が手元にあるという状態を作り上げた。本を買うのになんの手間もかからなくなったのだ。

今回の革命をうけて、旧来の出版システムというのは消えてしまうのだろうか。そうはなるまいと考えている。ディケンズの時代に「革命」があり、そこから出版界は大いに成長していった。それと同様に、今後の出版界も多様な方向性を内包しながら成長を遂げていくのではあるまいか。

私自身、長い間「ニューメディア」の信奉者であり続けている。とくに「デジタル化」については大いに賛成してきた。しかし、自分ではデビュー小説を旧来のやり方で出版しようと考えている。電子出版であればそうした苦労は一切必要ないことはよくわかっているにもかかわらず、なぜ恐ろしい(そして往々にしてヤル気を失ってしまう)エージェントとのやり取りを行おうと考えているのだろうか。

理由は多くある。しかし代表的なものをいくつかあげるに止めよう。まず自己出版を行えば、211,000件の「その他大勢」に含まれてしまうこととなる。本を出した後、注目してもらうということが非常に難しくなってしまうのだ。とくに出版するのが新人小説家ということであれば尚更だ。作家をや書籍に世間の注目を集めさせるというのは、自己出版においては難しいことだ。また、自己出版本は週刊誌や新聞の書評欄にも掲載してもらえないケースがほとんどだ。大きな賞をとるなどという可能性もほとんどない。自己出版を行うということはすなわち、外部の人に宣伝してもらう機会をほとんど失ってしまうということでもあるのだ。

さらに大きいのは、既存の出版ルートを進むことで、質的な向上が望めるということだ。私は自分の本を可能なかぎり最高の状態で世に送り出したいと考えている。出版社側の厳しい視点こそが、私の作品をさらに磨き上げてくれるものだと思うのだ。

実のところ、執筆中の本は3年前に既に完成したと思ったものだ。実際には、ここから編集作業が始まることになった。もし自己出版の道を選択していたなら、きっと欠陥だらけの本を世に出すことになっていたはずだ。既存のスタイルで出版しようと考えていたので、Humber School for Writersにも参加した。ここで既に出版物を持つ作家に指導してもらうことができた。その作家は私の草稿を破り捨て、そしてそれから6ヵ月にわたって、より良いものにするためにいろいろな指導をしてくれた。もし自己出版を行うことにしていたならば、第7稿(第8稿かもしれないけれど)あたりで満足してしまっていたに違いないのだ。プロの厳しい目で見てもらいながら、2年もかけて推敲を重ねるようなことはしなかったに違いない。

これから、出版社と繋いでくれるエージェントを探す行動が始まる。ここでまたいろいろと厳しい意見を頂戴することになる。心の準備はなかなかできないでいる。しかし原稿の方は、いよいよ世に出る準備が出来上がっているのだ。エージェント探しもなかなか緊張を強いられる作業だ。しかし実はこれも必要な通過儀礼なのではないかと考えている。プロの著作物を多く見てきた眼の肥えたプロフェッショナルに、私が多くの時間を捧げてきた作品を見てもらうことができるのだ。

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(Maeda, H)